One day

 カチカチと普通よりも大きな音で時を刻む、愛用の目覚まし時計の秒針を聞きながらつい今しがた見た夢を反芻していた。
 概ね維遠は早起きである。余程疲れていない限り目覚ましが鳴る前に起きるし、余程深く眠らなければ目覚ましが鳴っても気付かないなんてことはない。
 そしてそれと同じくらいに維遠は夢を覚えている。
 夢を見た記憶があるならほぼ確実に覚えている。それは一夜に何度見ても同じことで、最大で五回見た夢を五つとも覚えている。維遠の数少ない特技の一つだが、今日はいささか事情が違った。
 命霞と名乗った天使の少女に触れらた感触まで鮮明に思い出せるのはいき過ぎだ。
 決してやましい感情があるからではない。断じて!!
「そもそもそのあとの戦闘の余韻で目覚めるやろフツー」
 たしかにあの女の子もかわいかったが。覚醒する瞬間に頭に浮かんだのはやはり天使の少女のほうだった。
「いや、そうやなくて」
 セルフ突っ込み。
 ――思考を拒絶しそうになるくらいにはアレは現実だったということだ。
 そう。女の子の意向で殺されることこそなかったが。
 もしも彼女がそんな性格ではなかったら。
 もしも彼女があれほど強くなかったなら。
 その上で意識が彼女に移っていたら――?
「………………」
 首もとに触れる。天使が触れ、水の刃が削った場所。なんともない。
 おそらく多くの人間はこう考える。
 まあ、夢のことだし。
 そんな日もあるだろうと。限りなくリアルな夢を見ることもあるだろうと。
 その思考はしかし維遠に限ってはありえない。
 明晰夢を見る方法は確立されているわけではない。だが、一般的に夢を反芻することが有効だとされている。夢の内容を覚えておらずとも、夢を見たという事実だけでも覚えておくようにすると、明晰夢を見る可能性は高くなる。
 少なくとも維遠は幼い頃から夢を思い出すことが多かった。だから明晰夢を見るようになったのか、それとも初めから明晰夢だから思い出すことが多かったのか。今となっては思い出しようもないが、そういう習慣があるのは事実である。
 そして経験的に今しがた見ていた夢は正確には夢ではないと――彼女の言を借りるのであれば《夢幻》ということになるが――頭よりも体が訴えている。
 維遠はたしかに命を懸けた決断をした。
 生きることを選択したのだ。
 その決断を――仮に夢だったとしても――なかったことにはできそうになかった。
 だけれど維遠はとりあえず一日を始めることにした。
 春休みなのに学校があるからだ。

 私立朱陽しゅうよう学院高校。中高一貫の進学校である。
 維遠はその高校からの編入生の一人として通っている。
 ちなみに入学式は来週。中高一貫の学校の特徴か中学卒業と高校入学の扱いがお座成りで、さらに朱陽の場合、進学校としての性質も併せ持つために、授業の進行ペースが通常よりも早い。
 そのせいで春休みなのに維遠はせっせと登校していた。編入生用の補習があるのだ。
 ちなみに徒歩。
 中等部は臨海地、高等部は山の上にあるというよくわからない造りをしていて、中等部は交通の便がいいのに、高等部は非常に悪いという、進学する気を失くさせるような特徴も持っている。維遠の家からの場合、バスで四十分かかるのに歩いても一時間で着くという微妙さ。もっとも、維遠の家自体も多少不便なところに建っているのだが。
 そういう半端な交通事情と神園家の懐具合と維遠の運動不足を鑑みた結果、徒歩通学という非常に健康的な手段を選択することになったのだった。
 中学もそれなりに遠かったし、歩くこと自体維遠は好きなので不満はないが。
「さすがにしんどいな……」
 朝から一時間かけての山歩きは正直疲れる。
 昨日も思ったことだが、夏は着替えが必要かもしれない。春のこの時期ですらかなり汗ばんでいるのだから。
「ついでに眠い」
 いつもと違う夢のせいであまり寝た気がしないのも眠気に拍車をかけている。
 眠いだけで、授業が始まったり、他に集中することがあると気にならないのだが。
 三度のメシよりは寝るほうが好きな維遠としては睡魔はなによりも打倒しがたい敵である。十二時間くらいはゆうに寝れる。あまりそういう機会はないので一度しか経験したことがないのが残念だ。
 校門を抜けて十メートルほどの道を歩く。
 山の中腹にある学校なので、校舎に行くには階段を下りなければいけない。通用門が開いていればその必要はないのだが、休校中は正門しか開けてくれないのだった。
「おはようございます」
 階段を下りる手前で斜め上から声がかけられる。振り向くと見知った顔。
「おはよ」
 高一にして百八十センチを超える身長――現在進行形で成長中――とおしゃれなノーフレームの眼鏡が特徴の同級生五百蔵いおろいくが。あだ名はリク。
「いい天気ですね」
 空は青く、この時期には珍しく黄砂も少なく澄んでいる。見下ろす街の彼方には海。お世辞にも通いやすい学校ではないが、景色だけは一級品だ。
 それを眺めながら階段を下りていく。
「暑いくらいやな。徒歩通学にはかなわんわ」
「イトくんトコは遠いんでしたっけ?」
「歩いて一時間やなぁ」
「それはしんどいねぇ」
「リクちゃんは?」
「歩きで五、六分ですね」
「近っ! ……つうかそれでココ選んだんか」
「そですよ?」
 朱陽も進学校としてはレベルの高いほうだがそれでも上はある。全国模試一位の陸が通うには少々物足りない。役不足というやつだ。
「かー、選り取り見取りはコレやからナァー」
「イトくんだってもっと上行けたでしょ」
「いやムリムリ。今年は簡単やったけど」
「ラクくんも逃げなかったらよかったのにねぇ……」
「まあそれには同意やけど」
 しかしその選択が間違いではない気も同様にしている。
 靴を履き替え、授業のある教室へ。
「色気ないんはどうやろなぁ……」
 ドアを開けた教室を一目見てつぶやく。
 約五十人の男子生徒がそこでたむろしている。
 そう、朱陽学院は男子校なのである。
「まあ……学業よりはそっち取りそうなタイプですよね、ラクくんは」
「ていうか取ったんやけど」
「たしかに」
 などと喋りながら自分の席にすわる。名前順なので二人の席は比較的近い。
 カバンを置くと丁度チャイムが鳴った。
「今日はちょっと遅かったか」
 それから飯田と一色が遅刻ギリギリで登校してきて、補習が始まった。

        ‡

「メシ行かね?」
 四時間にわたる補習が終わった後、一色が言った。
 ちなみに購買はおろか食堂も開いていない。それゆえ帰り道に食ってから帰らないかという誘いである。
「行けば?」
「いや、お前も来いよ」
「イヤ」
「ああ、ゴメン言い間違えた。お前も来るから」
「なんでお前が決定しとんねん俺の事情を」
「俺やから」
 たしかに。
 一色はそういう男であり、そう言う男である。勘違いも甚だしいが。
「金ないし」
「しゃーないなぁトイチでエエで?」
「十分一割とかありえんやろ」
「おしい! 十秒一割やから」
「死ね」
 言って立ち上がる。三年くらいの付き合いだがお互いに勝手だ。
「つうかめずらしく用事あるの!」
「ほう、それはめずらしい」
 自覚はあるが他人に指摘されるとむかつく。本当に身勝手だ。
「じゃあどうしましょうかね? 渡部くんと樋井ひのいくんで四人ですし丁度いいと言えばいいですけど」
「飯田はー?」
 ともに遅刻しかけた朋友に声をかける一色。
「ごめん、僕も用事あるから……」
 ぽそぽそと答えるとそそくさと帰っていった。
「アイツ暗いよなぁ……」
「そんなハッキリ言わなくても」
 維遠の素直な感想に陸がツッこむ。
「でも小学生のときもあんなかんじだったよ?」
「あー、たしかに。もっとヤバかった気もするけど」
 樋井の言に一色が同意する。三人は同じ小学校だったらしい。
「中学んときも暗かったけどな。高校デビューくらいしたらエエのに」
 そして維遠とは中学の同級生。
「高校デビューて」
 今度は渡部がツッこんだ。
 一色と五百蔵と渡部と維遠が同じ塾で、一色と樋井が小学生の頃の同級生。この五人では樋井だけが浮いている形になるが、一色とつるんでいるとこういうことはよくある。
 良くも悪くも友人を差別しないからだ。
「ていうかヤローばっか集まってもキモイやろ。エエやん、四人で楽しんでらっしゃい」
「ホント空気読めないヤツだな」
「ソーデスネー」
 一色の罵倒に適当に相槌を打って帰ることにした。
 当たり前だが校門は一つしかなく、最寄の駅と維遠の家の方向が同じなので途中まで一緒に帰ることにした。一緒に帰ると言っても特に話をするわけでもなく、後ろで四人が喋っているのを聞きながら先行して歩くだけだ。歩道が狭いので二人並ぶと一杯一杯になるという理由もあるが、奇数人で集団を作ると維遠は意図的に一人になる。残りでペアを作りやすくなるし、維遠自身が一人でいることを好むからだ。
 分かれ道で「じゃ」といつも通りに軽く声をかけるとそのまま一人で帰る。
 頭を占めるのはもちろん今朝の夢のことだ。
 一色には用事と言ったが、きちんと約束したわけではない。夢の中の出来事でしかもほとんど一方的に「会いましょう」と言われただけだ。
 夢の中。
 笑いそうになる。いや、少し笑ってしまった。
 もともと色事にそう関心はなく、だからこそ特に将来の希望もないのに男子校に通っているわけだが――そこまで女に飢えていたか。もっとも、あれが夢なら、だ。
 正直なところどうでもいいと言えばどうでもいい。
 夢か現か不明だが、それでも自分は生きることを選択したのだ。ならばそれに従って生きていけばいい。
 建てられつつあるマンションを見ながらそう思った。
 ここには一軒の古ぼけた屋敷があった。五年ほど前のことだ。
 それを取り壊して建てているのではない。壊れたから建つことになったのだ。
 そのくらいには、古ぼけた大きな家が倒壊する程度には、大きな地震だった。
 死者六千人以上。負傷者四万人以上。
 維遠が知るただ一つの死地。――地獄と呼ぶには維遠はあまりにも幸運だった。
 それを思い出すからここを通るたび憂鬱になるのはいつものことだ。もともと頻繁に通る道ではない。これから三年間は世話になるだろう道だから、いつか慣れるだろう。この憂鬱もいつかわからなくなるときが来る。それが淋しいと言えば淋しい。
 こういうとき、自分は感傷的だと維遠は思う。
 あるいは身勝手なのか。そこにあったものがなくなる悲しみよりも、あったという事実を思い出せなくなる自分に淋しさと嘲りを覚える。
「神園くん?」
 横から声をかけられる。同年代の少女の声。聞き覚えがある。
「……布引か」
 布引さゆり。幼馴染と言っていいものかどうか。小学校、中学校と同じ学び舎で学んだ仲だが、馴染むと言うほど馴染めてはいない。十年近く経った今も苗字で呼び合うくらいには。
 高校生になったくせに未だに三つ編みでお下げにしている。らしいといえばらしいが。
「珍しいな、こんなトコで会うんは」
「……そうかも」
「どっか行くん?」
「うん、ちょっと」
 言葉を濁した。彼氏でもできたのだろうか。地味であることを除けば十人並みの容姿をしているが。地味だから十人並みなのか、十人並みの容姿が地味に見せるのかはちょっと判断が難しい。娘十八……、なんて言葉が頭をかすめる。あるいは十年近く続く薄い関係が彼女が美人であることに慣れさせているせいか。なんにせよ女性を見る目のない維遠にはわからないことだ。
 たしかなのは彼氏がいてもおかしくないってことぐらい。
「神園くんは?」
「俺はアレ、学校帰り」
「学校?」
 朱陽は私服の学校なのでぱっと見ではわかりにくい。先月まで制服を着て学校に通っていたともなればなおさらに。
「そう」
 言って背中のリュックを見せる。登山用の大きなもの。今日は半ドンなのでそうでもないが、一日授業になるとかなりの量になるからだ。
「俺、朱陽やから」
「あ、そっか。飯田くんと二人、先生の間で有名だったよ」
「そうなん?」
「そうだよ。わたし、ほら、生徒会もしてたから」
「……そうやっけ?」
「……そうだよ……書記だけど」
 また地味な役職だな、と思うが声にはしない。顔に出なかったかは自信がない。
「ふぅん……まあ、いいや。じゃ、俺帰る」
「うん、また」
 会話が続かなくなるのは目に見えているので適当に区切って帰る。そのあたりからして彼女とは馴染めていない。もっとも、会話が続かないのは誰に対してもだ。
 話してくるのを聞く分には構わないのだが、自分から話を進めるのは苦手なのだ。
 それはさゆりのほうも同様らしく、二人で会話が盛り上がったことはない。二人きりで会話をする機会がそれほどあったわけでもないのが実際のところだが。
 聞き上手のほうがもてるという話を聞いたことがあるが、本当のところはどうなんだろうか、などと当初とは違うことを考えているといつのまにか自宅のあるマンションに着いていた。
 十階建てのマンション。そのエントランスの前から引越し屋のトラックが丁度出発するところだった。
 ちなみに維遠の家は四階で、
「お。おかえり」
 タイミングよくエントランスから出てきて維遠を迎えた同級生の男は七階である。
 神垣かみがきたのし。通称、ラク。
 維遠にとって幼馴染とはこの少年を指す。
「ただいま。エエよなぁ、春休みあるヤツは」
「それが普通やから」
「エエよなぁ……」
「ま、所詮朱陽なんかそんなもんや」
「で、どこ行くん?」
「買いモン」
 自転車を押しているので、そうではないかと思っていたが。
「ふぅん……」
「あ、そや、お前、今日メシ食いに行くから夜、空けとけよ」
 ついさっきも似たような話を聞いた気がする。
「なんで?」
 ので、反射的にそう聞いていた。
「お前の誕生日やからやろ」
「………………ああ」
 今日、四月二日は維遠の誕生日である。
「せやからどっか行くんやったら早よ帰って来いよ」
「ういうい。寝とくわ」
 そろそろ眠い。腹も減ったが。
「じゃ、いってら」
「おう、いってき」
 マンションの前の坂道をこいで下っていく。どうしてこがなくても進んでいくところを加速させるのか。
 見送るつもりはなかったが、視線を切るより先にラクが視界から外れた。
 結果として見送ってしまったことに苛立ちつつ廊下を渡り階段を上がる。エレベーターもあるが、階段で行ったほうが近いからだ。
 階段を上がってすぐ右手。四〇六号室が維遠の家だ。
 両親はこの時間いない。夫婦共働きで、兼業主夫の父親でも夕方以降でないと帰ってこない。そういうわけですでに二時前だと言うのに自分で昼食を作らないといけない――
「お」
 作り置きがあった。
 なければないで寝るかと思っていたのだが、せっかくの気遣いだし、ありがたくいただくことにした。
 テレビをつける。普段は食べながら見ることはないが、昼ご飯を家で食べるときだけはつけることが多い。普通の学生にとって昼の番組は休みのときにしか見れないからだ。
「………………」
 おそらく父親の弁当になったのであろうおかずの残り物を食べながらワイドショーを見る。この辺りで起きている連続殺人事件を取り上げていた。
 殺された人間はすでに五人を超え、しかも全員に共通事項らしきものがないのがよけいに怖い。警察は殺され方の凄惨さから愉快犯と見ているようだが、犯人像は浮かんでいないらしい。
 そのニュースが一段落して続けられたものは、一週間前のマンション崩落事件の続報だった。崩落というか爆破というか。起きた地域こそ、この辺りではないが連続殺人同様気持ちの悪いニュースだ。
 原因不明で、夜間に起きたことが災いして住人ほぼ全員が亡くなった、痛ましいとしか言いようのない事件。
 それに思い当たることがある。ただの予感だ。外れてくれればいい。
 そう思う。
 だが維遠が思うことはそれだけだ。
 被害者を悼む気持ちも、事件自体を悲しむ気持ちも。
 嘘くさくて正視できない。あるいは利己的で醜い。
 いずれにしろ、まるで映画か何かのように報道されるそれら悲しいニュースは、結局画面の向こう側の話で、当事者ではない維遠にはフィクションと大きく変わらない。いや、エンターテイメントとしての側面がない分だけフィクション以上に関心がない。
 憂鬱な気分で食事を終える。手早く皿を洗ってしまってテレビは消した。
 時刻はすでに午後三時近い。
 さっさと寝てしまおう。
 宿題が出されているが、維遠はそういうものは必要がないと思ったらしない主義だ。しないことで返ってくるものが自分一人にだけ影響するなら問題ない。それが因果応報というものである。
 故にしない。今日もして行かなかったが大丈夫だったから調子に乗ったということもある。進学校のペースに真面目に付き合っていたら体がもたない。一部の例外は除いて。
「…………寝よ」
 往復二時間の徒歩はやはり疲れる。慣れればそうでもないだろうが、中学ですら往復には一時間かからなかった。この差は意外と大きい。
 腹が満たされれば眠くなるのは生物の本能だ。眠気に勝てない維遠にはなおのこと。
 それに今朝は夢のせいで寝た気がしていない。ここは何も考えずに昼寝としゃれ込もうではないか。
 ぴんぽーん、とチャイムが鳴った。絶妙なタイミング。
 見透かされているらしい。
 少し笑ってしまった。そしてあの夢がどうやら現実だったようだと改めて受け容れた。

 それがどういうことなのか、維遠はまだ気付いていない。

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