――イタイ
・・・
初めに考えたことはどこが痛いのかということだった。
全身は最初に切り刻まれたはずだ。一秒ごとに一ミリずつ。正確に。
足裏から段々と上へ上へ。股間に辿り着くまでに死ねたはずだが意識は残り、痛みも残った。じくじくと絶望的な痛みが這い上がり、夥しいはずの出血はしかし一滴たりとも零れなかった。そのせいでオレは死ねなかった。
喉が切れるほど絶叫を上げ、終には喉が切り刻まれ、それでもなおオレは声ならぬ声を上げ続けた。最後の一ミリを残し、体は痛みを残したままで、形だけは元通りに取り戻した。そう、五体満足の体に戻った。はずだった。
その痛みを残したままで体は再び刻まれる。
切れてしまったはずの喉で再び声を漏らす。さっきの二倍は大きい声のはずだ。二倍は痛いのだからそのくらいはありえる。
それを何度も何度も何度も繰り返して、いつの間にか切断は止まり、気が付けば別の痛みに襲われた。また声を上げる。
次は皮を剥がれていた。爪先からぺりぺりと捲られ、指を通って腕から体の中心へ。薄皮を剥がれ、その下を剥がれ、真皮を乗り越え骨に至るまで、ゆっくりゆっくり一枚につながったままで、一ミリよりも薄く薄く、丁寧に、そう、まるで玉葱を剥くように。
残った内臓と骨を指で弾く。ただそれだけのものがイタイ。
イタイ、イタイ、イタイ――イタ
体が元に戻っている。腕が足が喉が心臓が、全て揃っている。
その上でまた剥がされる。ぺりぺりと。とても優しく。
ゆるりゆるりと繰り返し、いつかまた体は戻る。戻ってしまう。
その痛さを抱えたままで今度はただただ普通に殴られる。誰に殴られているのかわからない。一撃をもらうたびに内臓は破裂し、骨は陥没し、砕け、そのくせ皮は全く変わらずに残っている。相変わらず出血が無い。それだけが救いであり、どうしようもないくらいの絶望――いや、断絶だった。
とにかく痛い。
ぺきぺきと軽い音を響かせる骨が痛けりゃ、ねちゃねちゃと纏わり付く皮も痛い。
ここにある全ての刺激がオレを苛む。
目を刺激する光が、目に映る光景までもが痛みとなって襲い掛かる。
どこにも存在しないはずの血の匂いが。
自分自身の絶叫と自分自身が軋む音が。
空気の味も血の味も涙の味でさえもが。
壊れたはずの大脳を刺激してただただ純粋に純然に痛みだけを引きずり出す。
全ての光景は赤く白く、目の前のそれが事実だと告げてくる。
夢だと理解するオレはしかしここには居らず、繰り返される毎に激しさを増す痛みについにオレは痛むことを放棄する。
だからオレは今どこがイタイのかわからない。
あらゆる痛みがあらゆる箇所をあらゆる時間で襲うのであればそれはもはや感覚する必要など無い。
それでオレは痛みから逃げ出した。否、逃げ出せた、のだ。
無間地獄にも通じるような終わりの無い苦痛は、苦しいのではなくただ痛く、そのくせそれは責めるようなものではなく、意志も意識も無いただそうあるだけの機構。
罪を責めたてるのであれば罰として受け容れよう。
人を攻めたてるのであれば敵として戦い抗おう。
しかし空気を吸わねば生きていかれないように、その痛みはある。その痛みがなくては立ち行かないとでも言うように。
苦痛にもがき、もだえ、足掻き、掻き毟るオレを見下ろして考える。
この際《戦い》のことはどうでもいい。この痛みが何であるのか考えるのが――
唐突に、意識がブラックアウトした。
‡
昔話を一つしよう。
ソイツは初めただの一兵卒だったのだ。
戦争であれば大抵そうだと思うなかれ。なにせソイツの両親は軍ではとびきり階級の高い兵だったんだからよ。
けどソイツは自分の意志で両親の庇護を抜け出した。
だから生まれた次の日には戦場で剣を握って敵をブッタ斬っていたのさ。
生まれながらの兵士であったことは本人も認めるところでね。両親は敵味方問わず名を轟かせる生きた英雄で、生まれたときにはすでに戦争真っ只中。しかもそのときにはすでにどのくらい戦争が続いているのかさっぱりわからないってんだから、体が頑丈ってのは場合によっちゃ考え物だね。
そう、ソイツらは殺そうと思ったところで死ぬもんじゃない。
いやまあ、ソイツが生まれたときにはもう誰も戦争を終結させる気なんてなかったんだがね。だってそうだろう?
どのくらい続いているのかわからないなんてそりゃもう戦争じゃない。
日常、ってもんだ。有史以前から戦い続けるだけの体力があったのが、ま、悲劇の始まりっちゃ始まりだねぇ。人間ならどんなに続いたって百年が精々だろうさ。
例外はあるかもしれねぇけどな。
ともかくソイツはそんな環境に生まれてそんな環境で育ったのさ。
健やかに、な。
おっと、皮肉じゃねぇぜ。
ソイツは至極健全に――お前らの感覚で、だ――スクスクと育った。剣振り回してスクスクもねぇかもしれねぇけど、平和を渇望する程度には健康に育った。
な? 健全だろう?
時間も時代も流れ、誰も
平和な状態ってのを知らねぇのに、だ。
ああ。いや、現実に、ってヤツさ。さすがに教科書くらいにゃ載ってるぜ。
で、ソイツらは平和ならざる日常ってヤツを営んでいたのさ。疲れながらな。
いかにソイツらといえど疲弊くらいはある。長いこと戦ってりゃ誰にでも疲労ってのは積もり重なるもんさ。たとえ日常だったとしても、だ。
お前さん方だって血は流さずとも涙くらいは流すだろう? 日々の営みの中にだって闘いはあるってもんさ。相手が殺しても死なねぇんじゃ血も涙とそう変わりゃしねぇよ。
ま、ともかくソイツらは全体的に疲れてたんだわな。で、疲れってのは考えを変な方向に持ってっちまうもんさ。それが有史以前から続く戦いの疲労ってんなら、そりゃもうどうしようもねぇくらいありえねぇ方向に持ってくもんさ。
ちょっと狂ったんじゃねぇか? って思うくらいにはな。
お陰でソイツらは――や、ソイツ以外は、か。ソイツ以外の全員はちょいとばっかし狂っちまった。痛ぇ思いしながら、傷つきながら、ずっとずっとずぅっと戦ってた。
自分たちが変わったんだ、ってことに気付かないままな。
ああ、たしかにその点はお前さん方と共通することかもな。健やかな肉体に健やかな精神が宿るってなぁちぃとばかし納得できねぇもんがあるが、もともと健康だったもんが悪くなりゃ誰だって気分が悪ぃ。それがずぅぅぅと続きゃ、狂いもするわな。
ようするにソイツもやっぱり狂ってたってコト。
いやいや勘違いせんでくれよ。
ソイツは生まれてからずっと変わっちゃないぜ?
生まれたときから抱えた平和を願う心も、疲弊して磨耗してそれでも戦い続ける傷だらけの体を背負いながらなお、そう在り続けるソイツの在り方も。
平和を叫びながら剣を振るう、その矛盾でさえもソイツは変わらなかった。
な? 狂っているだろう?
ソイツは同胞が変わってしまっていることに全く気付くことなく、それまでと変わらぬ在り方のままで、ただただ愚直なまでに、いっそ機械的と言っていいほどに、戦争を、戦いを続けた。
凶悪的なまでの優しさでソイツは他全部を受け容れて否定した。
平和がいい、と。
戦いのない世界がいい、と。
争いと狂乱にまみれた世界で戦って戦って傷付けた。
そんなことの無意味さを悟りながら、だ。
それを狂いと評さずなんと言えばいい?
程度と狂いに至った時期は違えど結局ソイツも狂っていたのさ。いっそ正常だと思えるくらいにな。
だから戦争は終わらなかった。
ソイツが戦って戦って戦って戦って戦って戦って!!
もうどのくらい戦ったかわからなくなるくらい戦ってもやっぱり戦争は終わらなかったのさ。
これはただそれだけの昔話。
或る阿呆が生きた時代のその一欠片。
毒にも薬にもならない――つまらない話さ。
‡
――痛い。
「ああ、痛い」
口に出せるだけの言葉にした瞬間、その想像を絶していたはずの痛みはしかし耐えられるだけのものに変わっていた。
どこが痛いのかはあいかわらずわからないが、膝を抱えて縮こまっていればなんとか耐えられる。いっそ眠ってしまいたいが、痛みのせいで眠れない。さりとて目を開くことはできない。
映る光景が、入ってくる光が闇が、あまりにも痛くて虹彩も眼球も網膜も視神経もその先さえ焼いてしまいそうになるからだ。
そのくせそこが痛いわけではないという矛盾。
そこはあくまで焼かれているのだ。痛いのではない。
絶望と呼ぶには希望を持っておらず、災厄と言うには現実ではなさ過ぎた。
中途半端な空間。それがここだ。
夢のわりにはあまりに痛く、現実と言うには不可解。
――痛い。
「ああ。つらい」
答えるように口にする。
言葉にするとはつまり、音に仮託しながらも形、あるいは実体を与えるということだ。
少なくともオレはそう考える。
だから悪いことは言葉にしてはいけない――とはオレは考えない。
オレは言霊の力をそれなりに信じている。信じているからこそ、そういうことはちゃんと口にする。
自分にわからせるように言葉にする。
そうして。
そうやって言葉にして、真実そうではない自分を自覚するのだ。
眠ければ眠い、と。痛ければ痛い、と。つらいのならつらい、と。
本当に眠ければ思考など儘ならない。
本当に痛ければ絶叫しか上がらない。
本当につらければ言葉にもならない。
だからオレはきちんと言葉にする。言葉にして、そうやって仮託するだけの余裕があることを自覚する。
もうどのくらいこうしているのかさっぱりわからないが、今はずいぶんと余裕がある。
それゆえに――この痛みがどこからくるものなのか理解した。
いや、理解にまで及んでいるか自信はないが、概ねわかった。
これは向こうから来るものだ。だから『どこ』ではなく『なに』が痛いのか考えねばいけなかったのだ。
咎無くして責めたてられる己なのか。
訳無くして攻めたてられる体なのか。
あるいはそれを傍観するしかないオレ自身の痛みなのか。
あるいはそれを受像するしかない彼女自身の痛みなのか。
オレは考えなくちゃいけない。
‡
――聞きたいコトはただ一つ
・・・・・・
――それが望みか?
そうさ、それだけがソイツの願い、望みにして醜い欲求だ。
――それじゃあ
いや、結果としてそれは叶う。あまりにも場違いな犠牲の下に。そうだな、叶ってしまったと言うほうが正確か。
――それはつまり
そういうこった。ソイツはそれだけが望みだった。叶えたい願いだった。そのくせ叶わないと思い込んでいた。それゆえにソイツは間違えたのさ。そこに行き着くための手段、目的を遂げるための方策、願いを叶える方法ってヤツをな。
――じゃあ
ああ、それで正解だ。
――………………
覚悟はあるかなんて野暮なことは聞かねぇよ。けどな、これだけは憶えとけ。
――………………
ソイツはソイツで、お前さんはお前さんだ。それだけは間違いねぇ。
――……………………ああ もとよりそのつもりだ
じゃあ、どうする? こんなのは序の口だぜ?
――次に行こう どれだけやれるかわからんが
やれるだけは、ってか。お前さん、意外と弱気だねぇ。
――まあな あんなものは偶然だ
ま、それがお前さんの良さだろうさ。じゃあ、次に行こう。次はとびッきりだぜ。
――……上等だ
‡
返礼として受け取っておけ。
五年前のあの冬の日。大きな地震がオレたちを襲った。
沢山の人間が死んでもっと多くの人間が傷付いた。
街は砕かれ、大地は罅割れた。
多くの建物が倒壊し、もっと多くの建物は半壊し、さらに多くの建物はどこかが壊れてしまった。
ある場所では火災が人を殺し、ある場所では瓦礫が人を殺した。
ある者は自力で脱出し、ある者は誰かに救助された。
そんな中、オレは無傷で生き残った。
家族も友人も知り合いでさえ欠くことなく、家も居場所も通っていた学校でさえ失うことなく、五体満足のまま、かすり傷の一つも負うことなくオレは今日も呼吸している。
あまりにも幸運だった。
だからその幸運を噛み締めることにした。
オレはただそれだけの人間。
どこにでも存在している人間のその一人。
毒にも薬にもならない――つまらない人間だ。