First battle

 ただ手を握り締めることにどのくらいの意味があるのだろうか。
 奇跡を願ったことなどただの一度もない。
 ――わたしはさっきナンと言った?
 生まれて幾星霜の年月が流れたのかもはや自分でもわからない。
 生まれてからずっとできることをし続けてきた。
 だから戦って戦って戦って戦って戦いに明け暮れて終にそんな時代は終わりを告げた。
 この世界へやってきてからは他の誰かが戦う様をずっとずっと見続けていた。
 できることが変わったのはその戦いの時代が終わったそのときだけだ。
 する側から見る側へ。ただ一度の変遷はけれど彼女を変えるようなものではなかった。
 それ故にパートナーが原因不明で倒れた今でさえ冷静に――冷徹なまでに維遠の復帰の可能性を考えている。
 そこに、手を握り締めることに意味などあるのだろうか。
 奇跡を願ったことは一度もない。祈りを捧げる相手は存在しない。
 ――お願いだから、目を覚まして。
 彼女にできることは戦いを見続けること。そして維遠の復帰の可能性を計ること。
 ならばなぜ。
 自分はこんなにも熱心に彼の手を握り締めているのか。
 生まれて初めて自分の心がわからない。心の在り処さえ不鮮明で。
 どうしてこんなにも哭きそうなのか。涙がこぼれる感覚を生まれて初めて――
「………………ん……」
 ぴくりとまぶたが揺れる。軽い呼吸の音。
 ほとんど仮死状態にあった維遠の体は急速に元に戻りつつある。
 蒼褪めていた顔に赤みが差し、手にぬくもりが戻る。
「…………ふぅ……」
 力が抜けた。その自覚を持った瞬間、自分が緊張していたことを知った。
 思っていた以上に力が入っていたらしい。ここに来たときの維遠を笑えない。
「……ははは」
 笑ってしまう。まるで本当に十四の少女になってしまったようだ。
 たかだか一人の少年の生き死にに一喜一憂するなど。そんなもの、天使の頭脳を使ってさえ憶えきれないくらいに見てきたというのに。
「なにがおもろいねん」
 目を覚ましたようだ。開口一番それなら心配は無用だろう。
「んー? 維遠の寝顔」
「失礼。さりげなくものすごい失礼」
「あ、よだれ」
「!!」
 慌てて袖口で拭う様などはとてもかわいらしいと思う。年相応というか、どこかで達観したような雰囲気のある少年だけに、そういう子供っぽいところは母性をくすぐる。
 みかんに母性なるものが存在するかはさておき。
「冗談よ。いきなり倒れてびっくりしたんだから」
「あー……ワリ。どれくらい寝てた?」
「三時間弱ってところかしら。今六時前よ」
「………………え」
「……? 維遠?」
「……ああ、いや、うん、あそう。まあ、そんなもんか……?」
「し・ん・ぱ・い・し・た、って言ったでしょう?」
「いひゃいへすみはんはん」
 青筋浮かべて頬を引っ張る。ちなみに言ってない。
「痛ったぁ……。ワリ、ちょっと大変やった」
「こっちだって大変だったわよ!! いきなり倒れるし! 原因わからないし!」
「いや……あのタイミングやったら《ブレイド》のせいやろ」
「そんなの根本的な解決にならないじゃない!!」
「そんなん言われても」
「………………で?」
「で?」
 小首をかしげる。他の誰がやってもかわいらしさなんて感じないのに彼がやるとかわいく思えるのはなにゆえだろうか。
「だ・か・ら! その《ブレイド》はどうなったのよ!?」
「ん? ああ、大丈夫。なんとかなるやろ」
「維・遠? わたしはど・う・な・っ・た、って聞いてるのっ!」
「いひゃい。いひゃいれす」
「で?」
「ぃったぁー」
 頬に手を当てながら少し真剣な顔で答える。
「問題ないと思う。たぶんやけど」
「なんなのその曖昧な返答は」
「俺も全容は把握しきれてないねん。とりあえず一戦目くらいやったらこれで乗り切れるんちやうか、ってことで起きたんやけど……三時間ほどやったんか……」
「? つまり維遠の《ブレイド》は人格剣インテリジェンス・ソードってこと?」
「そうやな……まあ、そういうことなんかな。あんまりようわからんけど」
「そっか……それでわたしが感知できなかったのね……」
「んー?」
「あ、ううん。《ブレイド》の中には《ウォッチャー》に干渉できるくらい強いものもあるの。人格剣ならそれも充分ありえるから、たぶん、わたしが原因を探れなかったのはそのせいね」
「……ふぅん……」
 しかしそうなるとわからないのは《ブレイド》の所在だ。普通、結界外ではコマンドあるいは天使が一時的に預かる。負担が大きいからだ。
 だが本に還ってきた様子はない。もちろんみかんも持ってない。
「……維遠」
「んー?」
「その《ブレイド》、ひょっとして内在型パラサイトなの?」
寄生parasiteってか共生coexistenceちゃうか?」
「いいのよ、そういう細かいことは」
「いやいや大事ですよ?」
「いいから聞きなさい。《ブレイド》は無限とも言える種類があるけれど分類することはできるわ。その中で一番わかりやすい分類が内在型パラサイト外在型ガードよ。前者は人間に大きく負担をかけるから数としてはかなり少ないわ。もし維遠がそちらを選んでいたならやめておきなさい。命に関わるから」
「ああ、もう無理」
「なっ!?」
「せやから言うたやん。『共生』ちゃうか、て。もうこの《ブレイド》とは一心同体、どっちか切り離したらどっちも死んでまう状態や。ついでにその説明は《ブレイド》に聞いてる」
「………………」
「せやから『たぶん問題ない』て言うたやん?」
「それはつまりわたしが納得するかどうかはさておき、という意味かしら」
「そう。命を要求するとか言っといて命を懸ける必要はないとかさ。意味わからんやん」
 違う。その二つは全然違う。
 しかし今のみかんにそれを説明するすべはない。
「とりあえず俺はこの選択で問題ないと思ってる。まあ、後悔する、せんはおいといて」
「………………。……わかったわ」
 ため息をついて同意した。すでに手遅れならこちらが同意するより他にない。
「じゃあ魔力特性マナカラーは?」
「ああ、それも決めてる。つうかコイツを使うんやったら最初に決めなあかんかったからな。コイツ、取り出せへんから」
「は?」
 今、維遠はなんと言った?
「……ちょっと。今、不穏な発言を聞いたのだけど」
「? 取り出せへんってヤツ?」
「ええ。どういうことよ、それは」
「いや、コイツを俺ん中から出すにはまだ修行が足りんって話。しばらくはコイツの特性と魔術だけで戦わんとあかんねん」
「……あのね、維遠。今朝見せたものはなんの役にも立たなかったってことっ!?」
 あの青年は《ブレイド》の能力を過信し、その力だけで戦い、そして敗れた。
 それは魔術であろうと、《ブレイド》の特性だろうと変わらない。
 戦闘では何一つ欠けてもいけない。足りなくてもいけない。
 それを――
「俺にはみかんがいるやろ。アイツにはパートナーがおらんかったけど、俺にはおる。たぶん、あの女の子にもな。大丈夫。俺が選んだ《ブレイド》は強い。みかんが選んでくれた《ブレイド》も強いって断言できへんのが心苦しいけど、大丈夫」
「……ばか」
 それを、そんな風に言われたら何も言えなくなるではないか。
「で、結局なんなのよ、維遠の選んだ魔術特性は」
 だから話を戻すことにした。
「内緒」
「…………維遠?」
「いひゃいへす。すほふいひゃい」
「痛くしてるのよ。ええ、このままちぎってやりましょうかしら?」
「ほへんははい。へろひえまへん」
「なんでよ」
「ったぁー……。えっと。言うと効果が半減するんすよ。まあそういう風に俺が決めたってだけなんやけど、ルールはルールやから。ただでさえ片手落ちなんやから念には念をってことで勘弁してください」
「………………わかった」
 自分でもびっくりするくらい不機嫌な声が出た。たぶん、生まれて初めて聞いた。
「その代わり」
「勝つよ」
「そんなのはいいわ。勝利なんてね、求めた先じゃなくて、積み上げた結果で手に入るものよ。特に維遠みたいなタイプはね。だから」
「だから?」
「死なないで。生き残って」
 目を逸らさずに言った。黒の瞳が真っ直ぐにそれを見返す。真摯な目。
「――ん、わかった」
 自分の思いが伝わったかどうか。けれど維遠はぼんやり笑っていて。
「そういうんやったら大丈夫。俺とコイツはそれに特化した組み合わせやから」
 みかんにもわかるくらいの自信で言い切った。
「……さて。ほんならそろそろ帰らんと。あ、みかんも来る?」
「え?」
「今日俺の誕生日なんやけど、なんか外で食うらしいから」
「……いいの?」
「あかんこたないと思うで? 多少からかわれるかもしれんけど」
「そんなのはどうでもいいけど」
「じゃ、いんじゃね?」
「うん……じゃ、お邪魔する」
「んな、行くか」
 ベッドから降りようとした維遠が固まった。
「? どうしたの?」
「あ……いや、ごめん。ベッド」
「? なにが?」
「……あー、いや、なんやろ?」
「洗濯のこととか気にしてるんだったらどうでもいいことよ?」
「あー、ん、じゃあ、そういうことで」
「ふぅん……。変なの」
 なんとも煮え切らない謝罪だった。しかも何に対するものだったのか不明瞭だ。
「いや、みかんがええんやったらええねん。ワリ」
「だからなんで謝るのよ」
「いや、なんやろ、女の子のベッドで男が寝るんて失礼かなぁ思て」
「そうかしら?」
「いや、なんとなくそう思っただけやから。気にせんといて」
「はいはい。そういうことにしておいてあげるわ。さっさと行きましょ」
「あー、うん」
 ようやく固まった体を動かした。
「あ、はいこれ」
 言って脱がせたシャツを渡す。
「……サンキュ。ってかよう脱がせられたな」
「ま、それくらいは」
 維遠は「そか」と答えて着ながら先に出ていく。
 マンションの廊下に出ると少し寒かった。日が落ちているから当然だが。
 来たとき同様階段で維遠の家に行く。ちらりと維遠を見やると緊張しているようだ。おそらくみかんの説明をどうするかで悩んでいるのだろう。引越してきた人間と仲良くなったと言えば済む話だろうに。
「………………」
 自宅のドアを開けるのさえ少々ためらっている。はぁ、なんてため息までついて。
「よし」
 覚悟が決まったのか思いきってドアを開ける。
「ただいま」
 そのくせ声のトーンは普通かそれよりも低め。たぶん、意識してのことだ。
「おーおかえり。遅かったな」
「あー……」
 維遠の顔が「面倒やなー」というものになる。
 出迎えた人間は維遠と同世代の少年だ。
 彼はめざとくみかんのことを見つけ、そして不敵に――あるいは不適に――微笑んだ。
「ほほう。遅かった理由はそちらか」
「あーんーまぁ」
 曲解かもしれないが嘘ではない。《戦い》のための《ブレイド》に意識を刈られたのは元を正せばみかんが維遠に今朝、接触したからだ。
「三〇六号室に引越してきた西ノ宮命霞です」
「七一〇号室の神垣楽です。よろしく」
「まあ、そういうわけです。はい」
 なにがそういうわけなのかさっぱりわからないが。
「いやいや、お前もなかなか青春できてるようで俺は嬉しいぞ」
「平穏が一番やで、何事も。親父は?」
「奥におられるよ」
「さよけ」
 そのまま奥の部屋に向かっていく。みかんもそれについて行った。
 維遠が襖を開けて声をかける。
「ただいまぁ……」
「おかえりぃ……遅……」
 かったな、と楽と同じように言うつもりだったのだろうがそれは途中で止まった。
 机に向かい、振り向きざまに彼が見たものは超の付く美少女である。維遠の後ろに隠れるように佇む彼女は少しはにかんであいさつをした。
「お邪魔してます。三〇六号室に引越してきました西ノ宮命霞です」
「……ああ、どうもようこそ。四〇六号室の神園です」
 普通はこういう反応だろう。楽はその点冷静だった。もっとも、内面まではわからないのは確かだが。
「この子も連れてってエエ?」
「そら当然」
 二つ返事でみかんの同行が決定した。
「話聞かんとな」
 事情聴取も決定した。

        ‡

 みかんはいまいち気が付いていないようだが維遠が一日で誰かと仲良くなることなどないのだ。まして自分よりも年下の超絶かわいい女の子と、それも互いの家に行き来するほどになど、天地がひっくり返ろうとも起きえることではなかったのだ。
 それゆえにみかんの説明をためらい、悩んだのだ。
 それゆえに維遠の父親は少々オーバーとも言えるほどに驚いたのだ。
 もちろんそれは彼女のかわいさゆえでもあるが。
 しかし実際にはそのアリエナイことは起きた。起きないと無邪気に信じていられた大地震が起きたように。
 だからこの席は維遠の誕生を祝うものなのか、それとも起きえないはずの奇跡が起きたことを祝うものなのか、ちょっとあいまいだった。当人含めて後者を祝ったという意識があるような気がする。生きていれば誕生日など来るものだ。それを思えば奇跡を祝うことこそがふさわしいという気はする。
 そう、家から車で五分ほどの回転すし屋で奇跡みかんを肴に盛り上がっていたのだ。
 それは本当にあっけなく終わりを告げた。
 時間にすれば二時間もなかっただろう。つつがなく会食の場は終了し、料金の精算も終わり、さてあとは車で帰るだけ、という段になって、
「あの、ちょっと食べすぎちゃって。帰りは歩いて帰らせてもらってもいいですか?」
 なんてみかんが言い出さなければ維遠に二人の興味が向くこともなかったのだ。
「「ほう」」
 聞いたことがないくらいにばっちりのユニゾンだった。
「今やったら何したんか言うても許したるで」
「むしろこれからナニするんか言うてもエエで」
「待てや」
「身に覚えがないと?」
 首をかしげて楽が言う。にやにや笑いを浮かべながら。実に名前通りに楽しそうだ。
「なくはないが夜の散歩を楽しみたいという主張を曲解してもらっては困る」
「曲解」
 うしろに『(苦笑)』とでも付きそうなイントネーション。本当に愉しそうだ。
「いや、まあ、俺はお前がいつ大人の階段を上がろうともかまわんけど」
「だからなんでそんな話になる」
「思春期の男と女がいるからやろう」
「………………」
 否定はすまい。この世代の男の九割九部九厘は下半身でできている。残りの一厘は将来の不安だ。彼女ができるのかできないのか、の。
 例外はもちろん認める。
 だが。
うてすぐの人間とそんなんできるように見えるか?」
「なに、奇跡の時間はまだ終わりを告げていないさ」
「なんでそんなカッコエエ風に言うたん?」
「俺がカッコイイからだ!」
 背が多少低いことを除けば整っているが、それだけだ。
「ふぅん……」
 楽の戯言をスルーしてみかんを見やる。ちょっと真剣で。
「まあ、俺も歩きたいし」
 維遠も同意の方向で話を持っていくことにする。
「しょうがないから気を利かせてやる。日付が変わる前に帰ってこい」
「いや……」
 そんなに遅くはならないだろうし、何よりなぜ楽が仕切るのか。いつものことだ。が、こういうデリケートな問題は普通は親だろうと思って視線を向けても父親はあさってを向いてぼんやりしている。
 丸投げらしい。どこまで放任、いや放置なのか。
「イヤなのか?」
「否定してねぇ」
「しかしイヤと」
「いい加減みかんがキレそうなんでエエかな?」
「ふん、女を盾にするとは女々しいヤツめ」
「フェミニストなんで」
「おばさんに怒られると思うぞ」
 維遠の母親はアマチュアだがフェミニズム研究家でもある。たしかに維遠をフェミニストと言うのは無理がある。自分でも思うが。
「こういうのは言ってるうちにそうなるの!」
「はいはい。みんな最初はそう言うんだよ」
 相手にされなかった。
「じゃあ、そういうことでぼちぼち帰りよります」
 父親に告げて帰ることにした。
「ん、気ぃ付けて」
 唐突に話を切ったことに動じた様子も見せず、父親に言ったはずなのに楽が返す。維遠も気にしない。
「うぃ」
「またあとで」
「うぃ」
「ごちそうさまでした。おやすみなさい」
「いえいえ。おやすみなさい」
「おやすみ」
 みかんのお辞儀で二人は夜の道を行く。すぐに父親の車が追い抜いていった。
「……で?」
「あまりよくない知らせよ」
 となりで歩くみかんの沈んだ声。肩くらいまでの身長しかないことに気付いた。中学生とはいえ少し低めだろう。
 その小さな躰にどれだけの歳月を詰め込んだのだろうか。きっと維遠では想像することさえできまい。
「さっそく一戦目?」
「そういうことね。近いわ」
「そういや、トーナメントなんやろ? 期日指定とかあるんちゃうの?」
「いえ。対戦相手が決まってるってことくらいね。お互い知らずに出くわしていきなり戦闘になることもあるけど、大抵先に勝ち上がったほうが相手を把握してるわ。そういう意味では維遠は常にアウェイの可能性がある」
「最後に参加してるからか」
「ええ。どうしたって先に参加したほうが戦いを始めやすいもの」
「……それ、手のうちもばれるってこと?」
「どうかしら。少なくともありえない話じゃないわ。けど、維遠の場合はあんまり考えなくていいんじゃないかしら? 《ウォッチャー》たるわたしさえ把握してないことがあるんだから」
「……たしかに」
 現状《ブレイド》なのに《ブレイド》を使えないという『看板に偽りアリ』状態だ。使えるのがいつになるかわからないが、使わない以上バレることもまた、ない。
「ともかく戦闘になったら他の人間のことを考える必要はないからね。それとわたしのことも」
「なんでやねん」
「なにが?」
「少なくともみかんのことは気にせんとあかんやろ」
「忘れたの? 一回《ブレイド》同士で戦闘になったら他に気を回す余裕なんてなくなるわ。もしわたしに危険が迫るとしたらそれは維遠が倒されたあと」
「……向こうの天使が攻撃してきたら?」
「殺せない以上死なないわ。それで充分よ」
「………………」
「納得できないかもしれないけれど、今の維遠じゃそれ以上は無理よ」
 たしかに。
 たしかに守りながら戦うなんて真似はできないだろう。だがそれは――
「!!!」
 違和感が背中を走る。辺りの暗さが一つ増した気がした。
「結界が開かれたわ。維遠、気を付けて」
 みかんが一歩下がる。
「下手に隠れたりしたら気を回すでしょ。なるべく近くにいるから」
 それはありがたい。
 視線は前を向けたままで意識を集中する。
 沈むイメージ。
 立ったまま海に沈んでいく。視界の下から水面がせり上がっていく。呼吸が止まる。
 全部気のせいだ。だがそれは実感として維遠にあるものだ。
 沈降でありながら埋没していくイメージ。水中にいるように手足が重く、呼吸がままならず、それでいて肌は砂を擦りつけるように痛く、のしかかられるように重い。
「ひゅう〜。やるねぇ」
 予想通りだったのか唐突だったのか。それさえわからずその男は現れた。
 ひょろっとした、痩躯という言葉を体現したような男。軽薄そうな雰囲気は残したままで、しかしこの男が正気でないことはすぐにわかる。
 左手に生首がある。正視できない。吐きそうだ。
 ソレを男はボールでも投げるかのような気安さで投げてくる。放物線を描き維遠の手元に来る直前、みかんが横から受け取った。
 ソレを横目で見る。
「相手に集中しなさい」
 みかんに遮られた。
 恐怖が全身に広がる。鳥肌が体全体でたって、今にも震えそうだ。
                    ・・
 血の匂いが鼻を刺激する。一歩間違えればああなる。
 それだけのことが今はとても怖ろしい。
 普通に日本で生きていれば首だけになった人間など見ない。ましてそれを作った当人に会うことなどもっとない。警察の人間でもさらに限られた一部だろう。
 それを、今日十六になったばかりの少年が体験している。
「八人目だ、そいつは。で、お前が九人目。お譲ちゃんはできるかわからねぇが斬れれば十人目だ」
 粘性の高い、蛞蝓なめくじみたいな声で言った。
 ニュースで言っていた人数より少し多い。きっと報道に規制が入ったのか本当にわかっていないかだろう。
「抵抗してくれて構わんぞ。もちろん、抵抗しなくてもいい」
 嬉しそうに、実に愉しそうに――その喜びにだけは正気を感じられるくらい、素直な感情で――自分の《ブレイド》を一振りした。
 いつの間に握られていたのかさっぱりわからない。維遠と同じ内在型なのか、それとも《ブレイド》とはそういうものなのか。
 それは刀剣としては妙な形だった。
 六十センチほどのやや幅広の刀身に、突くことを度外視した丸みを帯びた剣先。握りこぶし二つ分しかない柄。
 斬首剣エグゼキューショナーズソード
 罪人の首を切り落とすこと、それだけを目的に作られた剣。
「先に説明しておいてやるよ。この《ブレイド》の能力は《固体の完全切断》だ。切り傷を与えた物体を完全に切り落とす。こんな具合にな」
 言って脇にあった電柱を切り倒した。剣自体は触れた程度だったが、傷自体が電柱を侵食するように広がって、切り口になってしまったのだ。甲高い音を響かせて倒れたあと、電線を走る電気が地面で爆ぜた。焦げ付いた匂いが血の匂いと混じる。
「ただし、流動体に効果はねえ。名付けて《ゴルゴダ》――安直だけどいい名前だろう?
お前ら罪人にはお似合いだ」
 どうやら男は死刑執行人気取りらしい。狂気もそこまでいけばひとつの信念だ。
「もちろん疑ってくれて構わんぞ。抵抗する気があるなら、だが」
 にやにやと薄ら笑いを浮かべ、無造作に一歩踏み出した。
「俺自体は格闘技の経験はなくてね。剣の性能と強化だけなんだが――ま、それも嘘かもなぁ、キヒヒ」
 十メートルの間合いをゆっくりと詰めてくる。維遠に考える時間を与えるように。
「まずいわね……いきなり限定兵装とかちあうなんて……」
 みかんのつぶやきが隣から聞こえる。聞こえるだけだ。
 ダクダクと心臓が響く。
 ――怖い
 人が死んでいる。首を切り落とされて死んでいる。
 血の匂い。焦げた匂い。それはあのときの。
 否。
 あのときの、五年前のあの地震でそんなものを感じている余裕はなかった。
 ならばそれはこの心が産み落とした幻想だ。
 そうだ。
 あのとき拾った命をどうしようと思っていたんだっけ?
 みかんになんて言われていたんだっけ?
 憧れのあの人は――どう言っていたっけ?
 ――怖い
 殺意が、狂気が、どうしようもなくこれは現実だと、夢ではない、傍観者ではいられないと、強引に理解させる。
 戦いが何かなんて本当にはわかっていない。
 そのことはわかっていたはずだ。夢で見たものなど現実の一分にも満たない。
 殺意のない戦いがどれほどありえないかなんてわかっていたはずなのに。
 『わかっていない』なんて理解は実戦では役に立たない。
 体感のない決死の決断や覚悟なんて意味がない。
 ――怖い
 迫り来る死の瞬間。
 たしかに。
 それはあまりにも確定的だろう。平和ボケした人間に非日常を生きる手段は二つ。
 誰かに庇護されるか――
「タ〜イムオーバー。とりあえず順番変更。お譲ちゃんから逝ってみよう!」
 凶刃がみかんを襲う。祈るように組まれた手が目に入る。

 ――誰かを護りたいと思うか、だ。

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