母に怖くなかったのかと聞いたら少しだけ目を潤ませて答えた。
「怖かったよ。すごい怖かった。けど、しゃあないやん、あんた生きとってんから。そしたら怖いいうんよりがんばらなって思て」
父にも聞いた。
「危ないなぁとは思ったけど。怖いいうよりかヤバいいうか。まあ、必死やったんは間違いない」
ただ一人憧れる架空の人物は言った。
「護る奴はな、護られとう奴に護られてるトコもあんねん。せやから護られる奴は護ってくれてる奴のことを一番に考えるんや。自分のことは護ってくれてる奴が絶対護ってくれるから」
だから――
俺もそうなりたいと思ったんじゃなかったっけ……?
‡
金属同士が打ち合う音を響かせたのち、男は距離を取った。
驚愕の表情は二人。男と隣のみかんと。
他にもギャラリーがいれば、みな驚いたことだろう。《完全切断》を持つ刃を弾いたのはしかし刃ではない。
光に包まれた拳だった。
それは迷いなく、真っ直ぐに打ち出された。切り傷一つが致命傷になる《ブレイド》に向けて躊躇も逡巡もない。
まして怖れなどどこにもない。
「……維遠、それ……」
「オイオイオイオイ!!! なんだよそのオモシロイ光は! 光のクセに押し返しやがった! 漫画みてーだな、オイ!」
男が嬉しそうに喚く。ただ切り刻むよりも少しは抵抗があったほうが好みなのか、それともただ躁なだけか。
「……少なくともコレを切るんは無理っぽいな」
状況を確認する。拳は健在、光も健在。今の一撃は一方的にこちらの攻撃が向こうのものを弾いた。本当は折るつもりだったがそこはさすがに《ブレイド》だけあってできなかった。
大丈夫。
戦える。そのための 《ブレイド》を選んだ。
「魔術か……? にしちゃ威力が小せえな。なんにせよ《ブレイド》を使ってこないところを見ると随分とナメちゃってくれてる、ナ!!」
距離を詰めて連撃、連撃、連撃。
三撃を一組とした攻撃を連続で叩き付けてくる。それを維遠は両手でもって迎撃する。
突きが度外視されている以上攻撃は全て斬撃。しかもさきほど告げていたように剣術のような流れのある動きではない。素人だというのは今のところ本当のようだ。
一刀に対して二手ある維遠は比較的余裕を持って迎え撃つ。隙あらば一撃二撃は返せるだろうが、光は拳しか包んでいない。無防備の他の箇所を狙われたらそれで終わりだ。
それが積極的に攻勢に出られない最大の理由。
お互いに切り札を出し惜しみしている状態で迂闊な攻撃は命取りになる。向こうもそれは承知しているらしく、開始早々膠着してしまった。
剣と拳が奏でる無骨な調べ。
維遠のはるか後ろでそれを聞きながらみかんも男と同様、維遠の戦力を計っていた。
不可解なのはあの維遠の拳を包んでいる光。あれは魔力そのものでもなければ魔術というほど複雑な出力をしているわけでもない。言うなれば《ブレイド》のようなものだ。
たしかに維遠の《ブレイド》は内在型である。そうであれば内側からその力が漏れているのだと考えることもできるがその場合、手は無事では済むまい。
それゆえに不可解だった。まるで維遠自身が《ブレイド》になったような。
「――まさか。そんなものを使えばわたしだってわかるわ」
むろん、そのような《ブレイド》は存在する。しかしそれではないと断言できる。なぜなら現在の維遠の状態でさえもみかんは把握できていないからだ。
事情を細かく知っていることでかえってみかんの疑問は男のものよりも深い。
《ウォッチャー》の監視さえも潜り抜ける《ブレイド》なんて見たこともなければ聞いたこともない。おそらくあの男のパートナーでさえ維遠の状況は不可解だろう。
一体どんな《ブレイド》を使い、
魔力特性を使えばあのようなものを出現させられるのか。見当もつかない。
「維遠……」
不安になる。そのことが維遠をよくない方向へ追いやるのではないかと、根拠のない焦燥に駆られる。
そんな
不安や焦燥に意味がないことなど理解していながら。
「ぐっ……!!」
維遠のうめき声に顔を上げる。どうやら無警戒だった突きを食らったらしい。あの部分に刃は付いていないので能力が発動することはないだろうが、見ているこちらがハラハラする。――そう、心がざわめくのだ。
「どうして……」
いや、わかっている。わかっているが認めたくないだけなのだ。
彼は、維遠は――
「……維遠」
見やる。
「維遠ッ!!」
黒い縄のようなものに捕らわれていた。
――恐怖が体中を這いずり回る。
「ガ……!!」
血管の中にミミズが這うように、筋の隙間にナナフシが奔るように、皮の下でダンゴムシが転がるように。
首を回って腕も拘束するように、その黒い怖気は維遠を縛り付けている。
――コワイ。コワイ。コワイ――!!!
「ふう……いや、まいったね、コイツを使う気はなかったんだが」
それはあまりにも単純な魔術。自分の魔力を縄にしてその特性を相手に流し込むだけのそれ。しかしその特性ゆえに拘束することただ一点においてはあまりにも有効。
魔力特性――《恐怖》
本能を直接刺激するその特性は本来であれば補助的にしか扱えない。多くの者が《ブレイド》を媒介にして魔術を発動するからである。だがこの男は直接魔力を編みこむことで魔術とし、その特性を存分に生かしている。
剣士よりは魔術師よりの性質をしているようだが――
魔術はその他のフィクションでもそうであるようにイメージによって左右されやすい。よって余程の酔狂でもない限り『自分が魔法を使える』という確たるイメージは持てない現代日本人はその媒介をすでに存在している神秘――すなわち、《ブレイド》に依存させる。そのほうが効率よく魔力特性を発揮できるからだ。
だがこの男はその酔狂だったらしい。自分が魔法を使えると信じきり、そして見事にそれを成功させた。
「いや、さすがにあれだけ動くと疲れるからな。とりあえずきみはそこでじっとしてな」
維遠から視線を切り、みかんへ標的を変える。
「前回は試し損ねたからな! 今度こそはコイツが天使をも斬れるか試さねぇと!」
そしてやはり愉しそうに声を上げた。
濁った目をみかんに向け、走り出そうとした矢先、
「――!!」
顔面に蹴りが飛んできた。
「――な……」
紙一重で躱す。靴先が少しかすった。
視線の先、そこには縛られて――それ以上に恐怖で動けないはずの維遠がいる。
「テメーなんで動けんだ!?」
「……別に。慣れればどうってことない」
「それがなんでだっつってんだ!! そんなわけねぇだろ! 精神ぶっ潰すだけの魔力込めてんだぞ!!」
「………………」
そもそも生首程度で動揺するような精神が耐えられるような代物ではないのは間違いない。自分がそうされる恐怖を味わうのだから。
だが実際問題として維遠は縄を解いて立ち上がっている。あるいはさっきよりも生き生きとしているかもしれない。
「ちっ」
ここに至って目の前の少年がただものではないと認識したようだった。
今まであった余裕のようなものが消える。いや、油断が消えた。
「しょうがねぇ。あの娘は俺の好みだったんだがな。邪魔するってんならテメーが先だ。どうせ次も天使はいるんだしな。慌てることはねえ」
言って、
「どうせ手先だけ斬れなくても意味なんかねーんだ!! さっさとくたばれ!!」
先ほどまでとは違う、流麗な動きで維遠を攻める。
斬撃、打突、払い、拳打、蹴り、果ては先の縄状の魔術まで――
あらゆる攻撃手段が無作為に、しかし緻密な計算の下で繰り出される。
「くっ――」
維遠はそれをかろうじて距離を取りながら捌いていく。斬撃だけに注意を払い、他は当たっていくくらいの心持ち。
しかしそれが功を奏したのか、焦った男は大振りの横一文字の一撃を入れてくる。それをバックステップで躱して。
「?」
男も同様にバックステップ。
「維遠ォォォーーーーー!!!!」
遠くから届くみかんの声で気付いた。
さっきの大振りの一撃!
「言っただろうが。手先だけ斬れなくても意味ねえって」
ニヤリと笑った男の斜め上からいやな音が。
「そこでペチャンコになってろ。生きてりゃ斬ってや――」
る、という声は轟音で掻き消された。
ビルの倒壊する音で。
轟く爆音を見つめながらみかんはあわてて
本を確認した。
変化なし――戦闘続行、の文字だけが浮いている。
一つため息をついてこちらにやってくる男を見やる。
ならば自分がすべきことは維遠が脱出するまで時間を稼ぐこと。本を斬られなければ問題はない。みかんの体は《ブレイド》では斬ることなどできないのだから。
守って、なんて比喩に過ぎない。維遠はそのまま言葉どおりに受け取ったようだが。
元より守られるつもりなんて毛頭ない。今は勝ち進むだけだ。あの男を打倒するのだ。
あの男、たしかに剣に関しては素人だろうが戦闘に関してはなんらかの経験があると見ていい。最後に維遠を追い込んだあの動き、一朝一夕でできるものではない。
だがそれは維遠も同様。あれだけの動きを不完全とはいえ捌ききった。そんな動きが一朝一夕で身に付くはずがない。にもかかわらず維遠は身に付けていた。数時間前までただの学生だったはずなのに、だ。
どういうことだ――?
「って《ブレイド》以外ないわよね……」
「おんやぁ〜? 結界が晴れないってこた、アイツ生きてやがんのかよ。かぁ〜、しぶといねぇ……!」
わかっているくせにわざわざ口に出す。こちらの恐怖でも煽っているつもりだろうか。
「ま、そりゃそーか! なんせアイツ俺の十倍くらい魔力量あったもんなぁ!」
「………………」
突出することにそれほど意味はない。それをきちんと扱えて初めて有効なのだ。
「んー、もうちょっとリアクションがほしいんだよなァ……怯えなくてもいいけどよ、怪我するかもしれないんだぜ?」
「ありえないわ。
《ブレイド》はわたしたち天使が作ったものよ? そんなものでわたしたちをどうにかできるわけがない」
「そうか? 中には戦いの最中に命を落とした奴もいるみてーだけど」
「脆弱な者が強靭な者に立ち向かったのならありえる話ね。今回は残念ながらそうじゃないわ」
揺らがず相手を見据える。さすがに逃げることは難しいが、倒されないようにすることは可能だろう。本を狙わず自分を狙うならなおのこと。
「ふぅん……ま、試してみりゃわかるってことよッ!!」
向かって左、男の右手に握られた《ゴルゴダ》が振るわれる。狙い外れずみかんの首へと真っ直ぐに迫るそれが触れる直前――
「そうね。試せるなら、だけど」
口にした言葉はしかし男には届かなかっただろう。
百メートル以上離れた場所で横抱きにされている。抱いているのはもちろん。
「維遠」
「なァァーーーーーー!!! もう! 痛ェし! 怖ェし! つれェし! なによりうざってェーーーーー!!!」
吼えた。遠くに向かって、そのくせ自分に聞かせるような、とても遠回りな咆哮。
息が上がっている。振動が伝わってくる。かなり無茶をしたようだ。
「俺はな、みかん」
初めての呼びかけ。それはとても静かに。ささやくように。
夜空の星屑の光をかき集めて作ったような淡い、ひどく頼りなげな光を全身にまとって維遠はみかんを抱えて立っている。離脱にかけた時間はコンマ一秒を切っていただろう。
男は今ようやくみかんが――維遠がどこにいるか把握したようだ。
「なに?」
「守ってくれって言うたから参加したんや」
「うん」
「せやから俺としてはみかんが無事なんやったらなんでもええねん」
「うん」
「……と、ごめん、降りて」
言ってゆっくりとみかんを下ろした。微妙にキまらない。
見上げて先を促す。
「いや、せやからとりあえず今みたいな無茶ができるんはこういう場面だけなんやけど、ゆーのを言うとこう思て」
言葉の終わりと同時に光が消える。さきほどの拳を覆っていた光を全身に広げたものだろう。これほど近くで見て、接してさえいたのに結局、正体は不明のままだ。
ただこれは、魔術でも《ブレイド》でもなく、きっと維遠自身の光なのだろう。
優しいというよりは厳しい感じがした。あんなにも柔らかなのに。
「……たしかに勝てとは言わなかったけど。ひょっとしてそれって敗北宣言?」
「いや、どうやろ? 別に勝てる気はするけど」
「すごい自信ね、生首見てビビってたとは思えない」
「いや……なんやろ、そうやなぁ……」
言葉を探すようにうしろ頭を掻きながら唸っている。
「ホンマは盾やねん」
唐突に唸りを区切って維遠は言った。
「誰かを守るんやったらそれは剣やなくて盾やないと。せやのに騎士がうんたらとか武士がかんたらとか言うてフィクションの連中は剣にするやろ? いや、まあ、俺が知ってる話はっちゅうだけなんやけど。で、みかんが守ってくれ言うたのに選ばしてくれたんは剣だけやろ? せやからな、一番盾に近い剣を選んだんや」
「……それがさっきの光?」
「まあ副産物やけど。せやから俺しか包まれへん。ほんまやったらみかんも――ちゅうかみかんこそ包まなアカンねんけど。それで思い出したんや」
「なにを?」
「俺がホンマに怖いんは何や、ってこと。俺はな、したくないことは絶対せぇへん主義やねん。したくないことをしないためならどんなことでもする、ってくらい」
「…………らしい、と言えばらしいけど」
「逆にするのがイヤなことは理由があったらしてもええねん。イヤ、っていうのは大概が見栄やったりとかまあどうでもええ理由で言うてることやから。せやけど、したくないって言うんは絶対や。死のうが殺そうが関係ない。せんと決めたことなんや」
「うん」
「せやから俺は『死にたくない』んやなくて『死ぬんはイヤ』やねん。怖いけど、死ぬんは怖いけどイヤなだけやから」
「うん」
それで維遠は一つ深呼吸した。
「それだけ」
「は?」
「死ぬんは怖いけど、イヤなだけや。ほんならホンマにしたないことは別にあるっちゅうことやろ。それが何なんかわからんけど、それやったらとりあえず死んでもエエかなって思て」
「こらッ!」
「?」
「なんで『本気でわかんない』って顔してるのよ! ついさっき言ったでしょ! 死ぬなって!!」
「ああ。そんなこともありましたね」
「覚えとけって言ったでしょ!」
「維遠の頭脳はあまりにも貧弱なので沢山のことが覚えられません」
「なら他のこと忘れなさいよ!」
「エエねんて。俺にできへんことはみかんがやってくれるんやろ」
敵を見据えて、維遠は言った。たぶん、照れているのだ。
「……都合のいいことは覚えてるのね」
「記憶容量小さいもんで」
「いいわよ、もう。覚えるまで何度だって言ってあげるわ」
小さくため息。
「死なないで。でも勝って。それだけはわたしじゃできないから」
「おーけー。じゃあみかんができへんことは俺がやったる……わ!」
振り下ろされた斬首剣を躱して、維遠は反撃に出た。
あきらかにさっきまでは手を抜いていたのだとわかる動き。《ゴルゴダ》と名付けられた斬首剣の動きはもはや素人のものではなく、玄人――それも達人とさえ呼べるようなレベルのものに化けている。
それでも維遠が凌げているのは偏に全身にさっきの光をまとっているからである。
もはや敵が繰り出してくるのは必殺の一撃のみ。その全てが急所を狙い、意図の命を絶つ目的で撃たれている。お陰である程度慣れ始めていた。
この魔術――そう、みかんは魔術ではないと判断したがこれは魔術なのだ――は、《ブレイド》の干渉を防ぐだけでなく、相手の魔術をも遮断する。ゆえに男は黒の縄も、新たに編み上げた白の縄にも、有効性を認められず、結果として《ゴルゴダ》一刀で攻撃をするしかなかった。
下手に素手で打撃を与えようとすれば逆に傷を負うからだ。
だが悠長には構えていられない。この魔術――維遠もやはり安直に《オーラ》と名付けたが――はほぼ剥き出しの魔力であるために消費が激しい。長丁場になれば維遠が負けるのは必至だった。
結局のところ、維遠があの三時間で習得できたものはこの魔術たった一つ。
もう少し時間が、そして体力があればもうひとつの魔術も会得できそうだったが、《ブレイド》に止められた。どちらにせよ今日のところは無理だ、と。
たしかに無理だ。今ならばわかる。この――
「くっそォ!!」
目の前の男の消耗振りを見ていれば。
全身から滝のように汗をかき、目を血走らせて維遠と距離を取る。明らかに異常と言える男の疲弊。間違いなく魔力の消費によるものだ。
「卑怯だぞテメェ!! 《ブレイド》はどうした!!」
魔力が空になったところで意識が飛んだり死んだりするわけではないようだが、それでも異常なまでに疲労する。体力と紙一重で別物だが、その本質は同じで、要するに命の源のようなものだ。ただ体力と違い、物理的な制限を受けないために『空になる』という状態は起こりえる。男の状態はそれの数歩手前というところだろう。
「――その動き……魔術か」
「当たり前だろ! 素人だ、つったろうが!!」
「じゃあ俺も。俺は《ブレイド》が使えん。条件が厳しくてね、お前程度なら自分でなんとかしろってさ」
「……ほう」
目に見えるかのような怒りが男から漏れる。
「いいぜ……その挑発、ノってやる!!」
さらに加速させた連撃!
・・・・・
だが維遠も両手でそれを受けきる。――受けきったのだ。
「て……メェ!」
「お前メチャクチャやなッ! 自分の魔力特性とほぼ無関係の魔術使いやがって!」
「ハッ! テメーほどじゃねえよ! なんなんだよその光! 反則にもほどがあんぞ!」
「やかましいわ!!」
腹めがけて蹴りを放つ。だが《ゴルゴダ》で防がれた。
「罪人は罪人らしく大人しく死んでりゃいいんだよ! 抵抗すんな!」
「アホか!」
もはや術が解けたのか素人然とした大振りの一撃を片手で止める。否、握りこむ。
これで詰みだ。
「パートナー呼んで本よこせ」
全く気が付かなかったがこの男、維遠よりも一回り以上年上のようだ。見た目がそうであると言うだけで実際のところはわからないが。
「断る。悪に屈する気はない」
「さよけ」
わかっていたことだ。《ゴルゴダ》をねじり取って――
「んじゃ」
首元に手刀を叩き込んだ。それで終わり。男はあっさり意識を手放して気絶した。
同時に維遠の《オーラ》も消える。ギリギリだった。男の魔術の魔力消費がもう少し少なければ負けていたのはこっちだった。
また、偶然に助けられた。
悔いがあるとしたらその一点。次の戦いではもう少し戦術を練ろう。
「次のことを考えるのは勝ってからよ」
「え?」
振り向くとみかんがいた。
「殺してもいないし、降伏を受けたわけでもないんだから。本を探さなきゃいけないことわかってる?」
「あー……」
「あのねぇ……」
呆れている。そんなことすっかり忘れていた。
「まあそれはいいわ。ね?」
みかんが振り向いた先に一人の男がいた。倒れた男と似た痩躯の人物。翼こそないようだが彼こそが男の《ウォッチャー》だろう。
「降伏なさい。もしくは本をよこしなさい」
一片の容赦もなくみかんは言う。絶対零度の声。
「断る。そう易々と敗北を認める者がどこにいる?」
《ブレイド》と違って低い、落ち着いた声。
「じゃあなんで現れたの」
「むろん、そこの男を起こすためだ。魔力の枯渇が招いた気絶なら補充してやればことは済む。加えてそちらも魔力枯渇。ならば降伏や破損などもっての――」
ほか、と言う前に維遠は男から本を奪っていた。
臙脂色の表紙。
「これ、どやったら壊れるん?」
「な!?」
「なんでもいいわ。破ってしまえば手っ取り早いけど」
「ん」
一ページ目を破る。破いたところから――夢で見たように――泡のように消えていく。
空に溶けて星になるようだ。
「――や、それはロンチックすぎか」
見上げてつぶやく。少し雲が出てきている。雨が降ったりはしないだろうが、すぐに星は隠れてしまうだろう。
「わり、少し嘘ついた。まだもうちょっと余裕あってん」
男に向けて言ったが彼は半ば以上消えていた。
「キサマら……何者だ? 《ウォッチャー》に誤認させるなど……」
「秘密」
維遠が答えると同時に男は消えた。
「ん。お疲れさま」
微笑と共にみかんは本を開いて見せる。
――勝者、神園維遠
「で、どうするのコイツ。例の連続殺人犯みたいだけど」
「えーと……とりあえず《ゴルゴダ》とかなんとか《戦い》関連の力は破棄ってもらうとして……」
「たぶん、捕まってないのは天使のほうの力だと思うから、すぐに捕まると思うけど」
「じゃ、それだけで」
「はいはい。甘いわね」
「厳しくしてもね」
「……たしかに」
こういう手合いとは関わらないのが一番だ。
「申請終了……と」
みかんが告げると結界が晴れた。紗がかかっていたような世界が通常の夜に戻る。
同時にどっと疲れた。疲れた、という程度で済んでいるのはきっと《ブレイド》とみかんのお陰だろう。《オーラ》が無くては確実に死んでいた。それが今日一番の幸運だ。
崩されたビルを見やると戻っていた。改めて考えると随分と無茶苦茶な戦いだったような気がする。……いや、無茶苦茶だった。
視線を逸らして、考えないことにした。元に戻ったのだからそれでいい。
「とりあえず帰るか……このオッサンといるトコ見られてもイヤやし」
「そうね……」
淋しげに答えると先に歩き出す。
その視線はどこか遠く、過ぎ去った時間を見つめるような真摯さを湛えていた。