I'll never allow you to lose!

 ぴちょん、と水の滴る音がした。
 広い、維遠の家のものの十倍はありそうな――シャワーだけで四つ付いている――広い浴室。月影の屋敷の風呂場である。
 レヴェッカとの戦いから一時間ほどで意識を取り戻した維遠は、とりあえず埃だらけの服と体を洗うために浴室へ案内された。服はシィカが洗濯している。
「洗濯物が乾くまでゆっくりしていてくださいね」
 と言われたのでのんびりしている。
 ――つもりだった。
 ぴちょん、と水が滴った。
 広い、維遠の家のものの十倍はありそうな――銭湯にありそうなくらいの――大きな浴槽に、しかし膝を抱えて小さく、小さく体を折りたたんで浸かっていた。
 断っておくが維遠にそんな癖はない。
 広いものは広々と使うのが維遠だ。
 それなのに。
 ああ、それなのに。
 なぜ、彼はそんなにも恥じ入るように小さくなっているのか。
 ――恥ずかし
「Eカップですわ」
「言わんでエエねんそんなん!!」
 んんん……、とエコーがかかる。広さゆえか、本当によく響く。
 なぜ小さくなっているのか。
 恥ずかしいからだ。
 タオルはない。他に隠せるものなど何もない。
 頼るは己が体のみ。
 こんな場面でなければかっこいい状況だった。
 ともかく。
 維遠がのんびり入っていると、レヴェッカが入ってきたのだ。だから出ようとした。
 出ようとしたら「出るな」と言われた。
 叫ぶわよ、とも。
 ので、泣きそうになりながら体を折りたたんでいるのである。
 広い浴槽なのにレヴェッカは三十センチの間を開けたところにいる。
 もっと向こうへ行ってほしい。しかし言っても無駄だろう。
 だから限界一杯の精神力で明後日の方へ向く。
 けれど悲しいかな、維遠は意外と普通の健康な男子である。
 ちらりと横目で見る。
 タオルでは隠れきれていない、胸の上っ面、いわゆる谷間というヤツが見える。
「八十八センチですわ」
「!!!!」
 大急ぎで顔を逸らす。
 首から鈍い音を聞いた気がした。
 正直な話、のぼせそうだ。
 他人の風呂場の独特の匂いと――女の子の甘ったるい匂い。
 どちらも維遠が苦手とするものだ。
 ダブルで味わう、否、嗅ぐことはあるまいと思っていたが、存外あっさり体験した。
 もう二度とゴメンだ。
「別にわたくしが許容しているのですから、かしこまる必要はありませんわよ?」
「いやいやいやいやいや!!」
 そういう問題ではない。
 二階堂みたいに『実は男』説を考えてみたが、それはなさそうだ。匂いといい、さっき見た胸といい。
 ああ、ますます小さくなっていく。――反比例している箇所もなくはないが。
「ちなみに成長中ですわ」
「言うなって!!」
 煽らないでほしい。うぶなんだから。
「? それとも腰のほうがお好み?」
「論点はそこじゃない!!」
「八十八、五十八、八十五、ですわ」
「腰細ッ!!」
「……やはり」
「ああッ! ちゃう! 別に俺は腰フェチちゃうからぁ〜!」
 ぁーぁーぁーぁー……。反響が空しい。
 追い討ちを掛けるように、ちゃぷ、と水が揺れた。
「シィカからは聞きまして?」
 水を掬う音がそれに続く。遠くを見つめるような目。
 慌てて目を、顔を逸らす。自然に彼女のほうへ向いていた。
「洗濯するからゆっくりしてこいとは言われたけど」
 そもそも先に目覚めたのは維遠だ。すぐに風呂に入ったから、彼女が起きてからのことは知りようがない。
「そう……」
 掬う音が続く。きっと遠い目をしているだろう。
「負けたらどんな願いだったかお聞かせする約束でしたわね」
「いや、いいです」
「聞きなさい」
「はい」
 二秒弱で聞くことが決定した。声が本気だった。本気で殺す声だったから。
 泣きたい。
「わたくしは妾の子です」
「はぁ……」
 いきなりヘヴィだが、それは予想の範囲内のことだ。
 田島が彼女の元ではなく、清一朗の元で、と言ったこと。
 屋敷に彼女ら以外の気配がしないこと。
 そもそも屋敷の立地がおかしいこと。
 加えて、彼女が月影グループの人間としてではなく、学生として自己紹介したこと。
 あとは楽も含めた、いわゆる『金持ち』と括られる家の子と接してきた経験と勘。
 そういうものが、彼女は出生になにか抱えていると告げていた。
 だから驚くようなことではない。
 まして、
「でもそれは願いとは関係ないやろ?」
 短絡的に結びつけるようなことでもない。
「――なぜ、そう思いますの?」
「月影さん自身は幸せそうやん。シィカさんが不幸やとも思わんけど」
「――――……」
 そも、本気で生まれをどうにかしたいなら体面なんて気にせずに勝ちに来ればいい。
 わざわざ『殺し合う気はない』なんて言わずに奇襲すればいいのだ。
「やはり流石ですわね。《ブレイド》云々という話を抜きにしても」
「や、せやから別に前評判なんかないやろ?」
「いいえ。たとえばあなたが朱陽学院の生徒であることや、あなたの交友関係程度でしたらすでに掴んでいます。そういうことを知った上で、流石、と申したのですわ」
「や、まあ、さすがに月影さんトコくらい派手な金持ちはおらんはずやけど」
 一部上場企業に勤めるならともかく、取締役以上の要職に就くような親を持つ人間はいなかったはずだ。
 むしろ、事実はどうあれ、そんな人間としか付き合っていないように思われるのは心外だ。
 数少ない友人たちのほとんどがそれなりの家柄だと、説得力の欠片もないことは承知しているし、レヴェッカがそんなところを指して『流石』と言ったのでもないことくらいは理解している。
 早い話が上手く謙遜できないのだ。
 自分に対してさえ。
「罰なのだと言っていましたわ」
「――――――」
 振り向きそうになって、大急ぎで首を戻した。
「構いませんわよ。わたくしから入ってきたのです。肌を見られることは承知していますし、それ以上のことも覚悟の上ですわ」
「それ以上て」
「抵抗する気はないと言っているのです。結界が開かない以上、わたくしはただの女子高生ですわ」
「それは俺もやけど」
「男子と女子とでしたら男子のほうが有利ですわよ」
「俺の腕力は女子平均です!」
「………………」
「あ、今、哀れんだやろ。なんか気配が生温ぅなった!」
「女子一人押し倒せませんのね……」
「ていうかそれ犯罪! 今もギリギリなんやからヤメテ! まじヤメテ!」
「では話を戻しますわ」
 黙ってコクコクうなずいた。
「シィカがこちらの世界にいる理由です」
「――罰が?」
「ええ。彼女がこちらにやってきたのは随分前らしいですわ」
「へぇ」
「数年前からウチで暮らしているのですが、まあそれはともかく。この《戦い》に参戦するためにこちらの世界へ来たのではなく、もともと追放される形でこちらへ来たのです」
「じゃあ、その、減刑のため?」
「いえ。刑の執行自体はすでに終了しているらしく、戻ろうと思えば戻れるそうですわ。ただ、戻ったところで居場所がないですから……」
「こっちで大人しくしてる、と」
「ええ。ですから願うまでもないことなのです――彼女に関しては」
「――――――」
 つまり、そのことに関して問題となるのはレヴェッカのほうだと。
「彼女が背負った罪がどのようなものであるのか、詳しくは知りません。ですが、結果として友人を殺めてしまったと」
「いや、別に言わんでも」
「いいえ。あなたは聞くべきです」
「はい」
 すみませんでした、と言わないのは、余計に怒りそうだからだ。
「どのような理由であれ、罪を犯したのであれば罰は受け容れるべきだと思っています。少なくともわたくしは」
 静かに。自分に言い聞かせるように。
「けれど罰を受け容れ、反省したのであれば許されるべきだとも思っています。刑が終わったのならなおさらに」
「うん」
「だからこそシィカは許されるべきなんです」
「うん」
「いえ、許してあげるべきなんです。誰よりもまず、彼女自身が」
「うん」
「でも……」
 それで止まってしまった。
 ちゃぷん、と水が揺れた。
「シィカさんは許そうとせんと」
「ええ」
「でもそれって関係なくないッスか?」
「……何とです?」
「願いと」
 レヴェッカが願ったところでシィカは自分を許すまい。それはシィカの意志ではないのだから、叶ったとしてもそれはまやかしだ。
「ええ。別に勝った褒美として与えられる願いに関しては興味もありませんし、使うつもりもありませんでしたわ。ですから言ったではありませんか。あなたが叶えられる類の願いではないと」
「あー……」
 それはつまり。
「ただの意地ですわ。もしわたくしが優勝できたのなら自分を許してやりなさいと。言ったわけではありませんけれど、彼女のことです、気付いているでしょう。わたくしは不器用な女ですから、他に考えられなかったのですわ」
「さいで……」
 なんということはない、どこにでもある、しかし貴い、愛情だったのだ。
 ちゃぷちゃぷ、と音が聞こえる。水が揺れる音だ。
「ところで維遠さん?」
「はい?」
「わたくしがファーストネームで呼んでいますのに、あなたはいつまでわたくしのことをファミリーネームでよそよそしく呼ぶのかしら?」
「えぇー……」
 また、みかんと同じことを言う。
「じゃぁ、ベッキーで」
「……まあ、いいでしょう。愛称も親しみがあって」
 名前は恥ずかしいと思うのだ。幼馴染と言えなくもないさゆりにすら苗字で呼ぶくらいなのだ。そこのあたりの感性は察してほしいところだが、みかんもレヴェッカも関係ないらしい。
「では、はりきってどうぞ」
「……なにが?」
「――このまま抱きついたら誘ったのはわたくしということになるのかしら?」
「ご遠慮くださいベッキー」
「よろしい。では友愛の情に免じて許して差し上げますわ。先のわたくしの発言を遮った件ともども」
 まだ根に持っていたらしい。維遠は忘れていたというのに。
 また、ちゃぷん、と音がした。
「ねぇ、維遠さん」
「はい?」
「一つ聞いてもいいかしら?」
「どうぞ?」
「どうしてわたくしを攻撃しませんでしたの?」
「いや、ムリやろ」
 即答した。今度は彼女の発言を待って。
「いいえ。いくらわたくしの《減衰》が優れていようとも、あなたの《オーラ》を消滅させるには時間が足りなさ過ぎますわ。身体能力が向上するのであれば、なおさらそれまでにわたくしを射程内に捕らえることは可能だったはずです。それでもあなたは持久戦に持ち込んだ。なぜです?」
「二刀目に止められたんですけど」
「それ以降はただの一度も踏み込んでいません。専守策ばかりでしたわ」
「木ぃ投げたやん」
「当てる気のないものを攻撃とは言いません……見誤ったことは認めますが」
 たしかにあのとき、あの技を使う必要はなかった。その場で留まっているのが一番楽だったのだ。
 しかし彼女は粉砕することを選んだ。命中することを怖れて。
「徹底的にあなたは防戦でしたわ。反撃する余裕はなくとも、反撃することくらいできたでしょうに」
「それが最後の木ぃやったんやけど」
「嘘おっしゃい。あれはあれで、たしかに全力でしたでしょう。けれど――」
「それが俺の《ブレイド》としての条件やから、で納得できるか?」
「――え?」
「最初に言うたやろ? 俺の《ブレイド》は条件が厳しすぎてああいう戦いでは使えん、て。それは俺っていう《ブレイド》にも言えることなんや。みかんを戦いから弾かれたらかなり力を失ってまう。そういう条件やからな」
「――――――」
「元々アンフェアな戦いに特化してたから、逆にああいう正々堂々の戦闘は苦手やねん。そういう意味でも月――、ベッキーとは相性が悪かったな」
 《ブラックドラグーン》との相性も悪かったが。
「――ふん、正々堂々が苦手とは失礼な話ですわね」
 顔を背けた気配がした。怒っているのだろうか。
 だがそれも仕方あるまい。初手の攻撃を弾かれた以上、あれ以上の加速は維遠側になにかしらのハンデが必要だった。
 だから防戦に徹すると決めた。元々女性に手を上げるのは苦手とするところだ。丁度良かったのだ。
 勝負を決めにかかったのはレヴェッカが予想以上に粘ったから。自分も彼女も危険だと判断した。
 勝ったのは偶然と言ってもいい。もちろん、勝つつもりでいたが、それは彼女とてそうだろう。読み勝ったわけではない。勝てたのはきっと――
「まあ、わたくしも、もう一度踏み込まれたら負ける気でしたけれど」
 ――そう彼女が考えてくれたからだ。
「飛び道具であまつさえ《減衰》まで乗せて。それで負けるとは思いませんでしたわ。――正直に言えば、正々堂々と来られて困惑していたのかもしれませんわね。勝負事に卑怯も何もありませんもの」
「……なんやそれ」
「自分は何もルールを破ってはない。そういう意識が、相手がルール違反をしたときにでも、自分を強くするのです。そういう意味であなたはわたくし以上に清廉だった。《ブレイド》を使わず、相手を攻撃することさえせず、ただただ自衛のためだけに力を使った。倒される前に倒してしまえという意識のあったわたくしでは、どう考えてもわたくしよりも不利なあなたに、全力を出せても本気にはなれなかった。――負けて当然ですわね。侮っていたと言うのなら、わたくしもせめて《射出》はすべきでなかった。そうであれば互いに近接戦闘で、よりフェアな戦いでしたもの」
「………………」
「わたくしもまだまだですわね」
 自省し終えた彼女は一つため息をついた。どこか自嘲的な。
「次があるならもっと相手をよく見極めませんと」
「墓穴掘るってか」
「ええ。でもそれ以上に」
 不意に影が差した気がした。ちゃぷん、と水が鳴る。
「む」
「ひぅ!!」
「意外と毛深いのですわね」
「ちょ!?!?!?!?!?!?!?!!!!!!!!!!!!!!!!」
 背中にタオル越しでなにか柔らかいモノが――
 腕から胸にかけてもなにか滑らかなモノが――
「負けたら承知しませんわ――わたくしを敗ったのですもの、優勝以外認めませんわよ」
 囁く。右の耳に吐息がかかる。
「あぁぁぁーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!」
 右側から知った声。
 反射的に振り向く。
 今度こそ完璧に固まった。
 背中に張り付いているレヴェッカを忘れるくらいに。
 そこにはみかんがいた。

 全裸で。

「!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?」
 何に混乱しているのか自分でもわからない。
 完全に見えてしまったみかんの肢体の美しさに驚いたのか、そもそも母以外に見る初めての女性の裸体に驚いたのか、レヴェッカに抱きつかれているところを見られたことに驚いているのか、今の一瞬でタオルがズレてしまったせいで背中中で感じられる直の柔らかさに驚いているのか――
 たぶん、全部だろう。
 ともかく混乱した維遠の体が下した判断は。
「ほぁっ!!!!」
 奇妙な掛け声と。
 ご。
 という、自分の拳が自分の顔を――人中という上唇にある急所を――打ち抜く鈍い音。
 衝撃が後頭部を抜けていく。
 意識が薄れていく中、冷静な箇所が訴える。
 ――俺も今、全裸なんやけど……
 もう、目が覚めたあとのことは考えないことにした。

        ‡

 膝を抱えてさめざめと泣いていた。
 広い、とてつもなく広く、途方もないほどに広い、白い世界。
 《夢幻》
 夢と現実の狭間にあるこの空間に維遠が立ち入る方法はただ一つ。
 この空間の主たるみかんに召喚されること。
 しかし彼女はいない。昨日のようにあずま屋もなく、最初に来たときのように一面どころか、空間中に空白が敷き詰まっている。
 関係ない。
 膝を抱え、はなをすする。
 白い、囚人が着るような服を身に付けている。しかし涙を拭うことはしていない。
 頬を伝うに任せ、目を腫らして泣いていた。
 なぜ泣いているのか、維遠も自分でよくわかっていない。
 ただ、なにかしてはいけないことをした罪悪感で死にそうだった。
 いや、実際してはいけないことだ。過程はどうあれ。
「ホント、ヘタレねぇ……」
 呆れるような、否、呆れた声でみかんは言った。いつの間に現れたのか。
 しかし顔を上げる気にはなれなかった。
 というか全力で一人にしてほしかった。
「あのねぇ……さっきのは維遠は悪くないでしょ! わたしもレヴェッカもわかっててやってるんだから!」
 しかし維遠がわかったのは、みかんとレヴェッカはいつのまにか仲良くなっていたのだろうということだった。みかんならレヴェッカのことは『あの女』とか言うだろうと思っていたから、普通に名前で呼んでいることに驚いた。そのこととイコールで仲が良いというわけでもないだろうが。
 なんとなく、もっと積極的に仲が悪そうな気がしたのだが、そんなことはなかったらしい。もっとも、仲が悪いというのだってはっきりした根拠があったわけではないのだが。
 自信家同士が仲が良いというのはイメージしにくかっただけかもしれない。
 なんにせよ、仲が良いことはいいことだ。
 しかし、それとこれとは別なので放っておいてほしい。
「自分……ダメ人間ですわ」
「ホント、あと先考えずに風呂場で気絶しなくてもいいじゃない! 運ぶの面倒だったんだからね! あと色々やったからね!」
「イロイロって何!?」
 うっかり顔を上げる。白い、最初に会ったときに着ていた、肩を出したワンピースを着ていた。そのことに内心ほっとする。同時にがっかりもする。
 その辺り、自分でも正直だと思う。
「うぅ……」
「だからなんでわたしの顔を見ただけで泣くの! 逆に失礼だよ!」
「自分で自分が情けなくて……」
「泣くなーーーー!!!」
「ぅぅぅぅうう……」
「あーもう!」
 ぎゅっ、と抱きしめられた。
 逃げようとして果たせなかった。
「あのねぇ! レヴェッカがどうだか知らないけど! 少なくともわたしに関しては遠慮しなくていいの! ていうか女の子のほうが無遠慮なときは男は黙ってそれに従うの!
裸くらい気にしないわよ! わたしは!」
「れもさぁ……」
「でもじゃないの! ああもう! わかった!」
「ふぇぇ?」
 顔を上げられる。あごを持って。女の子がされるみたいに。
「どうせ維遠には夢だし! ここで一発二発ヤっちゃいましょ!」
「ヤ――!?」
「ちょっとは度胸を付けなさい!」
 言うや唇を奪われた。
「!!!!!!!」
 呼吸が止まる。全神経が口に集中する。
 甘ったるい、女の子の味が広がる。
 意識が飛びそうで、飛ばない。
 当たり前だ。ここは《夢幻》だ。あらゆるものは確固と存在しながら茫漠と移ろう、彼方の空間。
 あらゆるものはみかんの手のひら。それは維遠とて例外でなく――

 甘い、甘い、キャンディのような時間が過ぎていった。

        ‡

「これで年上ならほとんど文句はないのですけれど」
 維遠の寝顔を見ながらレヴェッカはつぶやいた。
「そうなのですか? お嬢様はもっと見た目にこだわるかと思いましたけれど」
「わたくしと釣り合うような?」
 からかうように尋ねたがシィカは意外と真剣に答えた。
「はい。もちろん、生まれ持つものですから、どうしようもないところではあるでしょうけれど」
「ある程度のレヴェルは欲しいところではありますけれど。必須というわけではありませんし、彼に限れば他で補ってあまりありますわ。わたくしだってそれなりに潔く生きてきたつもりでしたけれど、彼も同じかあるいはそれ以上ですわ」
「わたしにはお嬢様以上の傑物には見えません」
「あら、妬いているの?」
「はい。こちらにお世話になって丸三年になりますけれど、お嬢様がここまで入れ込んだ人間は彼が初めてです」
「あら、嬉しい」
 柔らかく微笑む。丁度、窓の外に広がる夕暮れのような微笑。
「けれどそれはしょうがありませんわ。彼はきちんと自分を認めていましたもの」
「――――――」
「人を差別する心はどうしようもありませんけれど、それを正当化しないことはどうにかできます。悪を悪と認められる強さはそれほど簡単には手に入らない――そのことはあなたのほうがよく知っているでしょう? だからこその嫉妬かしらね」
「いいえ。彼は自分で自分の悪心を認めたのではありません」
「――?」
「彼は自分の存在それ自体が無価値だと――あるいは無意味だと思っているのです。ゼロから生まれるものはどうあってもゼロでしかない。ゼロであるという事実が他に干渉することはあっても、ゼロであるそれ自体が干渉することはない。――早い話が彼は自分がお嬢様を差別しようがしまいが、お嬢様を変えるには至らないと考えたのです。だから彼は自分の思うままに思うことにした。それが悪であると知りながら、実効性を持たないという理由で否定しなかった。それだけです」
「………………」
「率直に言えば。彼はお嬢様にはどうあっても敵わないと思っただけなのです。だからわたしはお嬢様以上の傑物には見えないのです。白旗を揚げたのは彼のほうなのですから」
「………………。……けれど」
「?」
 やはり笑ったままでレヴェッカは告げる。
「みかんさんも同じように考えているでしょうね、わたくしに対して」
「――――――」
「なるほど。彼とわたくしは似たもの同士でしたか。ではこの感情はむしろシンパシーなのでしょうね。――でも、まあ、構いませんわ。自分以外の誰かを思うなんて本当に久しぶりですもの」
「おや? わたしのことはもう飽きてしまわれましたか?」
「そうですわねぇ……パートナーの浮気を認めることも強さの一つだと、妾の子は思いますわよ?」
「――そう言われてしまっては仕方がありませんね」
 二人で笑った。
 維遠が起きるとレヴェッカとシィカが笑っていた。
「目が覚めまして?」
「……覚めてません」
 布団を引っぱって顔を隠した。
 夢の余韻がつらい。この状況ではなおさらで。
「照れなくても構いませんわよ。戦ったあとの裸の付き合いは当然でしょう?」
「……そんな理由で入って来たんか」
 布団に隠れてくぐもった声になる。
「理由の一つですわ。それに『勝者は敗者に勝利する』もありますし。正直、犯される覚悟くらいはありましたわよ?」
「……エイズ検査とかしてないんで」
「――そんな断り文句、初めて聞きましたわ」
「大事ッすよ、定時的に薬飲まんといけなくなるンすから」
「まあ、終わったことはともかく」
「一生モンのトラウマなんスけど……」
「そんなの肌を触れ合わせているうちにどうでもよくなりますわ。それより夕食に行きましょう? 奢りますわよ、焼肉」
「えぇー……」
「肉はお嫌い?」
 本音は。しかしそれ以上に。
「ワリカンでええですよ……」
 すでに断る選択肢はないだろう。ので、妥協案を、
「却下です」
 即決で蹴られた。
「今ここでわたくしにムリヤリ襲われるのとお好きなほうをお選びなさないな」
「………………。……ごちそうさまです」
「――どちらにでも取れますわね」
「意外と親父趣味っつうか、オッサンくさいというか」
「何か言いまして?」
「ヤキニクダイスキデスー」
「では参りましょう。ふふ、初めてですわ、同世代の男性と食事を共にするのは」
「風呂がそうでないかの如く言いますね」
「あんなものはプールみたいなものですわ」
 違うと思う。
 水量は近いものがあったけど。
 ――と、また影が差した。
「維遠さん」
 少し真剣な声音で。
「――はい?」
 少し声が上ずる。
「先ほども言いましたけれどもう一度」
「負ける気はないですよ?」
「――でしたらいいですわ」
 離れていく。
「わたくしも着替えますから三十分後に出発としましょう。――維遠さん、いらぬお節介でしょうけれど、みかんさんにお礼を言っておきなさいね。服を着せたのも、ここまで運んだのも彼女なんですから」
「うぃー」
 どうやら本格的に仲が良さそうである。みかんと呼んでいるし。
「それから」
「?」
「あなたのほうが勝者なのです。もっとどっしり構えていなさい。勝者がすべきは勝者たることだけですわ」
「――はい」
 どっちが勝者かわからないな、と内心で苦笑した。

「シィカ」
 自室に戻り、パートナーの名を呼ぶ。
「――はい」
 レヴェッカの内心を悟り、わかっていると言うように答える。
「ごめんなさい。負けてしまいました」
「はい」
 背中を向けているが、窓に映る天使を見つめて言う。
「――人のことは言えませんわね」
「お嬢様とわたしも似たもの同士ですから」
 維遠に張り合うように言う。
「そうですわね。……自分で自分を許せない感覚。やはりできることなら味わいたくはないですわ」
「ええ。でも、お嬢様」
「なに?」
「神園様に負けたのでしたらしょうがないと思います」
「気休めの慰めは結構よ」
「いいえ。彼はたしかにお嬢様ほどの傑物ではありませんが――こと、この戦いにおいてはイレギュラー過ぎます。永劫とも言える時間続くこの戦いで、誰もができなかったことを成し遂げたのですから」
 すなわち、最終参加からの勝利。
「けれど」
             ・・・
「ええ、ですから。お嬢様が負けるにふさわしい人物であったことに違いはありません」
「――そう。ありがとう」
「おそれいります」
「それじゃあ、一つだけ」
「はい」
「わたしがこの敗北を許せる日が来たら」
「はい」
「あなたもあなたを許してあげなさい」
「――はい。この朱い夕日とお嬢様の銀の髪に誓って」
 いつかレヴェッカが立てた誓いと対の文言。
 夕日を見つめ、感慨深くそれを聞き届ける。


 月影レヴェッカ、三戦目敗退――

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