Memory at dawn

 冷たい雨が降る。
 しとしとと低い空から降ってくる。
 屋根から伝うしずくがとつんとつんと桟に当たってメロディを奏でる。
 雨樋を伝う水がきょろきょろと溝へ流れてそれに彩を添える。
 天からの贈り物を聞きながら、レヴェッカは涙を堪えていた。
 だからこの雨は彼女の涙だ。
 部屋で一人、ベッドの上で膝を抱え、唇を噛み締め、悲しみと怒りに耐えていた。
 知っていた。
 自分がこの家に歓迎されていないことは知っていた。
 その理由もなんとなく気付いている。
 母のせいだろう。
 この髪の色を与えた母は海外の人間だ。それも、お世辞にも良い家柄の人間だと言えないような。
 だから自分は『部屋』と称してこの屋敷に押し込められた。
 もう七年になる。
 不満はない。必要な物は全て与えられ、不必要な物すら充分に与えられた。
 それでも必要な人は誰一人いてくれなかった。
 母は死んだ。
 父は会おうともしない。
 この広い、広い、幼い彼女が暮らすにはあまりに広い屋敷には、他にただの一人もいはしない。
 淋しさには慣れたつもりだった。
 寂しいと思うことも減った。
 それでも――
「ぅく……」
 零れそうになる涙を上を向いてやり過ごした。
 泣くものか。
 それはもはやただの意地だ。
 決して泣かないと決めた。
 決めたからにはやり遂げる。
 それだけが、母から教えられたことだった。
 何もない、ただただ白い壁をじっと見つめる。
 夜が明けるまでの辛抱だ。あと数時間。たった数時間だ。
 それが、永遠に感じられる。
「ぐ……」
 奥歯を噛み締める。ぎり、と鈍い音がした、気がした。
 ――ぱしゃん。
「!」
 その音を聞いたのは偶然だったのか必然だったのか。
 とつんとつんと鳴る音にも、きょろきょろと鳴る音にも紛れることなく聞こえてきた。
 いや、いつもなら聞こえたところでどうということはない。
 無視して終わりなのだ。
 だから余計に不安だった。
 今日に限って無視することもされることも等しく怖ろしかった。
 重い体を引きずって外へ向かう。音のしたところへ。
 普段ならば一分ほどのところを五分以上かけてたどり着く。
 玄関を開けて、前庭へ出る。傘を差す気にはなれなかった。
 ぱしゃ、と雨が弾ける音がする。
 何かにせかされるように、暗い、昏い空の下を足早に行く。
 ほんの五秒も進んだところ。誰かが倒れている。
「――――……」
 自分の息を呑んだ音を聞いた。
 そこにいたのは天使だった。

        ‡

 少々大変だった。
 学年平均ほどの身長しか持たない彼女が、女性平均程度の大きさの女性を運ぶことも大変なら、その彼女をベッドに寝かせることも、濡れた体を拭いてやることも、大変だったのだ。
 加えて体調が思わしくない。
 それでも体に鞭打って彼女を助けたのは――
「ん……」
 気付く様子を見せたがしかし、彼女はまたまどろみへ沈んでいった。
 わかったことは背中の羽が本物であることだけだ。
 肩甲骨の付け根辺りから一対、大きく左右にせり出している。広げれば片方で彼女の身長ほどもあるだろうか。
 今はとりあえずベッドに収まるように折っている。
 ダブルサイズのベッドを彼女一人で占領しているかたちだ。
 レヴェッカはその横にいすを置いて、膝を抱えてすわっている。
 美しい人――いや、天使だと思った。
 黒に近い茶色の髪も、伏せる目も、閉じられた唇も、首から下もそうだ。
 天使がそうなのか、彼女が特別なのかわからない。
 だが羨望を抱くことすらできない美しさが彼女にあった。
 ――赦しを希う罪人のような。
「………………」
「――ありがとうございます」
「!」
 小さな声が聞こえた。
 それは目の前の彼女から発せられたものだったがとても小さく、聞き逃しそうになりながら、聞こえないわけがないくらいにはっきりとレヴェッカの耳に届いた。
 目はまだ閉じられたまま。いや、体全部がそのままで口だけが動いた。
「……大丈夫ですの?」
 声をかける。膝は抱えたまま。
「はい。お陰さまで」
「そう。飲み物でも持って来ましょうか?」
「いえ、結構です。ありがとうございます」
 彼女は微笑んだようだった。
 それでも口周り以外に変化はない。
「……本当に大丈夫ですの?」
「ええ、大丈夫ですよ?」
「本当に?」
「? はい」
「そのわりにはぴくりとも動きませんのね」
「得意なんです」
「は?」
「じっとしているのが」
「………………」
 妙なことを言う天使だった。
「……体の調子ではなく、心と言いますか、その……」
「記憶も頭もしっかりしていますよ。久しぶりのお布団が気持ちよくて」
 言いよどんでいると先回りして言ってくれた。倒れていた人間に頭が云々というのは失礼なような気がした。本当なら先に聞いておくべきだったのだろうが、混乱しているのはむしろ自分のほうのようだ。
「それで、どうしてウチの前で倒れていましたの?」
「……お腹が空いていて」
「………………」
 本当のような気もするし、嘘のような気もする。
 あるいは本当でもあって、嘘でもあるのかもしれない。
 ともかく。
「なにか食べます?」
「いえ、しかし、こうしてお布団を占領しているわけですし、その上食事まで頂くわけには」
「構いませんわよ。と言っても、冷蔵庫にあるものを取ってくるだけですけれど」
「いえ……」
「少し待ってなさいな」
 いすに掛けていたカーディガンを羽織るとレヴェッカは部屋を出ていった。
 雨はまだ降っている。

        ‡

 この無駄に大きな屋敷にも当然だがキッチンはあるし、冷蔵庫だって存在する。
 ただそれは主にレヴェッカのためというよりも、屋敷を管理する使用人たちのためのものだ。
 もちろん、レヴェッカが使ってはいけない道理はないが、彼女は大抵、外食で済ませてしまう。
 同じ一人の食事なら、せめて周囲にくらい人がいてほしいからだ。
 彼女の食事事情はともかく、冷蔵庫にそれほどめぼしいものはなかった。
 チョコやキャンディがあったのでそれらと、周りの棚に入っていたクッキーを適当に見繕ってトレーに載せる。
 深夜――時間で言えばそろそろ早朝だが、こういう時間の食事は体にどうなのだろうかと思う。少なくともレヴェッカはしない。
「食事と言うにはお菓子ばかりですけれど」
 一人つぶやく。
 相変わらず体の調子は悪いが、内心はウキウキしていた。
 ――天使だ。
 喋ったのだ。
 きっと世界で初めて天使と会話したに違いない。
 彼女と離れたことでそのことに気が付いた。
 そのせいか部屋に戻る足取りは軽かった。
 だから部屋に戻ったときの落胆と言ったらなかった。
「………………」
 いなくなっている。
 まるで初めからそこには誰もいなかったというように。
 デスクの上にトレーを置いて、ベッドの横のいすにすわった。
 膝をかかえて。
 陰鬱な気分に襲われる。
 否、現在進行で襲われていたはずだった。
 なのに今はついさっきまでの沈んだ心が軽く感じるくらいに重い。
「ばか……」
 いなくなるのなら一声掛ければいいだろうに。
 せっかく一晩だけでも、この無意味に広い屋敷に自分以外がいると――
 キン。
「!」
 今度は聞き違いなどではない。
 硬い、金属同士が打ち合うような、高い音が耳朶を打った。
 屋敷の中だ。
 反射的に身を硬くした。抱えた膝をさらに抱き寄せる。
 しかし同時にいなくなった天使が起こした音だとも思えた。
 むしろ状況から考えるにそれ以外あるまい。
 こわごわ部屋から出る。
 帰ってくるときに平気だった廊下は、今はとても怖い。
 明かりは点いている。それでも薄暗い。――平気だ。いつもどおりだ。
 ゆっくり、ゆっくり、足元を確認するように歩く。
 音はまだまだ遠い。反対側の棟にいるのだろう。
「大丈夫。だいじょうぶ……」
 言い聞かせながら廊下を行く。
 なぜ彼女の元に行こうとしているのか、全然わからない。
 わからないが、行け、と魂が叫んでいる。
 ならば行くしかない。
 もうすでに行くと決めてしまった。
 だから。
「行かないと」

        ‡

 硬音を撒き散らして剣戟が交わされていた。
 片や一刀の西洋剣。
 片や二刀の舶刀。
 西洋剣の主は黒い影で、舶刀の主はさっきの天使だった。
 どちらもどこかちぐはぐな感じがした。
 黒い影は文字通りの影で、全く厚みを感じさせない。そのくせ明かりを返して光る剣を巧みに操り、天使を追い詰める。
 一方で、さきほどの穏やかさをどこへ隠したのか、茶髪の天使は倍以上の剣速で以って影を削っていた。
 右手に黒。左手に青。
 まとった衣は白。
 顔は不敵に微笑み――
「あぁ、すみません。追いつかれてしまいました」
 レヴェッカに気付いた彼女は謝った。
 しかしレヴェッカは目の前の現実を把握するので精一杯で。
「え? えぇ?」
 目の前の光景が信じられない。
 火花さえ散って見える剣舞に目を奪われる。
「すぐに――!!」
 どっ、と胸に衝撃。
「こッ!」
 口から空気が漏れる。
 なぜ?
 なぜ――
「すみません。だいじょうぶですか……?」
 なぜ彼女は腹から血を流しているのだ!?
「ひぅ……!!」
 出ていった空気を吸う。おかしな音がした。
 どうして。どうして。どうして――!!
 影が二体いるのだ!?
 逃げようとして、尻餅をついていることに気付き、腰が抜けて立つことさえできないことに気付いた。
 我を忘れ、みっともなく這いずる。
 しかしもう腕にも力が思うように入らない。
 疲れた体からどんどん力が抜けていく。すでに朝に近い深夜だ。疲労は限界だったのだから。
 そのくせ意識はどんどん覚醒していく。
 ――死ぬ。
 ――怖い。
 ――助け……
「だいじょうぶです」
 自分の行く先、二体目の影と自分との間。
 影とは別の影がある。
 顔を上げる。
 注意深く二対の影と対峙する天使の姿があった。
 血は流したままで、息さえ上がらせて。
 それでもレヴェッカに笑って見せた。
「わたしと《インディゴアンティキティ》に敗北の二文字はありません」
 手にした舶刀を示して見せる。
 瞬間、好機と捉えたか、影が同時に襲いかかる――
 キキン! と、二連の音がしたと思ったときには、向こうの影は斬られていた。
 しかし。
 未だ、レヴェッカ側の影は健在、いや、向こうを囮にしての攻撃!
「あぶな――!」
 い、と言う、その刹那。
 たしかに天使がつぶやくのを聞いた。
「だいじょうぶ、ありがとう」
 それはいっそ神々しいほどの笑顔で――
 斬、と聞いた、気がした。

        ‡

 かなり大変だった。
 影を倒した天使はそのあと倒れ、自分もまた腰を抜かしたまま起き上がれなかった。
 それでも起き上がれたのは奇跡だ。
 その奇跡に気合ですがって歩いた。天使を背負って歩いた。
 彼女をベッドにまで運び、傷の具合を見ようとして驚いた。
 すでに塞がっていたからだ。
 だからさっきと同じように寝かせて、さっきと同じように膝を抱えていすにすわっている。
 眠くはない。神経が昂ぶっている。
 疲れているが、それだけだ。
 自分を庇って傷を負った彼女ほどではあるまい。
 死んだように眠る彼女をじっと見つめる。
「すみませんでした」
 さっきと同じように口だけ動かして。
「それはわたくしの台詞ですわ。――ごめんなさい」
 頭を下げる。その拍子に堪えていたものが込み上げてきた。
「いえ、この屋敷で戦ったわたしの不備です。あなたを巻き込んだのもわたしですし、なにより油断しました。すみません」
「あなたをこ、の部屋に、連れ込ん、だのはわた、くしです。何もでき――……」
 涙を堪えようとして言葉が止まった。
 怖かった。
 もう今は何が怖かったのかわからないが怖かったのだ。
 彼女が起きて本当に良かった。このまま死ぬのではないかと。
「できないと、知り、なが、ら」
「いいえ。あなたはなにも間違えていません。たとえそれがあなたのエゴだったとしてもわたしはそれで救われたのです。あなたがいなければきっとやられていたでしょう。あなたがあの場にいてくれたから、あなたが来てくれたから、わたしは――」
 それから初めて天使はこちらを向いた。
 目を開いて、藍色の瞳をこちらに向ける。
 夕闇の空のような、昏い、澄んだ青。
「やはり間違っていたとしても、間違えていなかったと、思えましたから」
「?」
「いいんです、わからなくて。あなたにはわたしの正体を知ってほしくない」
「――……ですが」
 声が涙に濡れる。
 泣きそうな顔をして笑う彼女を見て、レヴェッカは泣くことにした。
 いや、とっくに泣いていた。
 たぶん、七年前のあのとき、母が死んだ、そのときからずっと。
「あなた、名前は?」
 袖口で涙を拭って、聞いた。
「いえ、わたくしはレヴェッカです。月影レヴェッカ」
「シィカです。ただのシィカ」
「行くところは?」
「これといっては特に」
「ではシィカ」
「はい」
「ここにいなさい。わたくしのそばにいなさい」
「……天使ですよ?」
「あなたのほうが格上だと?」
「いえ、そういうことではありません。何かと面倒事が、」
「そのほうが助かりますわ」
「え?」
「わたくし、もう二度と今日のような無様な真似は致しません。ええ、二度と」
 誓うように、否、誓って言った。
「この赤く輝く今日の朝日と、あなたのその青い目に誓って」
「――――――」
 雨が止んでいた。
 赤い光が射している。
 もう膝は抱えていない。
「次はわたくしが助けて差し上げます」
 さっきの彼女のように、不敵に笑えたろうか。
「――はい」
 それから彼女も笑って。
「ではお嬢様」
「――お嬢?」
「はい。間違ってはいないでしょう?」
「いえ、ですけれど」
「伏せたままで失礼しますお嬢様。どうかお休みください」
「――――……」
 じっと見つめる。宵闇の色をした目。眠りを誘うような――
「……わかりましたわ。ではシィカ」
「はい」
「少し向こうへ寄ってちょうだい。もともとそのベッドはわたくしのものですわ」
「これは失礼を」
「構いません」
 二人して、ふふ、と笑った。
 姉妹のように。
 親友のように。
 一対の剣のように。
 それから日が沈むまで眠った。

        ‡

 きっともう泣かない。
 彼女も泣かせない。
 雨は止んだ。
 きっともう曇らない。
 わたしたちはずっとこうして在りつづける。
 月と太陽のように。
 天と地のように。
 花と雪のように。

 それは、
 一対の剣のように。

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