Lightning blow

 話は一ヶ月ほどさかのぼる。

 その日、嵯峨野嘉美弥は一つの戦場にいた。《ただ一人を決める戦い》の場である。
 細面の整った容貌に、それにふさわしいだけの、しかし鍛えぬかれた痩躯。優男を演じながら、その身からはうっすらと血の匂いがしている。
 そう、彼はこの戦いにおいて、全ての相手を屠ってきた。その必要のない相手も、そうでなければ自分が殺されていた可能性のあった相手もいた。だがその区別なく、彼は相手全員を血まみれにしてきた。
 手にする《ブレイド》は騎士剣クレイモア
 スコットランドの一部の騎士階級の人間が扱ったとされる、誉れ高い剣だ。
 そして彼もそれに見合うだけの覚悟を剣に誓い、それゆえに多くの咎を犯してきた。
 悔いはない。かならずこの剣で――《ブレイド》でただ一人に至ってみせる。
 その自信があった。
 否、もはや自信などという身勝手な言葉ではなく、その責務があると言って良かった。
 他の誰かの願いを踏みにじり、他の誰かの命を散らし。その結果として彼はこの場に立っている。その奪った人たちに報いるためにも、負けるわけにはいかないのだから。
 だから、目の前にいる若い女が相手であっても手加減をするわけにはいかなかったし、それ以上に負けるわけにはいかなかった。
「――名前を聞かせてもらってもいいかな、お嬢さん」
 静かに告げる。これまでの対戦相手の名前も聞いている。それは自分が手にかけた人間を忘れないための儀式であり、自分が背負う重さを知るための手がかりとなるものだ。
「人に名を聞くときは自分から名乗るモンじゃないのかい? 坊や」
 しかし返された言葉はありきたりな、そしてそれゆえに基本的なことだった。
 腰まで伸びた黒髪をウェーブにして、服装も黒で統一した、妖艶な出で立ち。ただ一箇所、唇に塗られたルージュだけが紅く、鮮血のように浮き上がっていた。
「失礼。わたしは嵯峨野嘉美弥。それで、あなたのお名前は?」
「そうだねぇ……御主人とでも呼んでくれ。御主人と書いて《ミスト》、どうだい?」
 明らかに偽名。ただの語呂合わせだ。だが、名乗られた以上聞き入れるしかない。
「わかった。ではミスト」
「なんだい?」
「あなたを倒す」
 その青年の言葉に、艶やかな紅い口角をあげ、妖艶に笑んだ。
 それは美しくもあまりに傲慢な嘲笑。
「あぁ……それはそれは頼もしいことだよ、嵯峨野嘉美弥くん。しかし、だ」
 もったいつけた話し方で朗々と語る。
「きみにはできない。あぁ、もちろん、同じようなことは過去に言われているだろう。あるいはきみの方こそがそう言ったのかもしれない。ともかく、だ。嵯峨野嘉美弥くん。きみはこれまでの戦いをどのくらいの時間で終わらせてきた?」
「………………」
 答える理由など何一つない。
 だが彼はあえてその挑発に乗ることにした。
「そうだな……最長で五分というところか」
「それはすごい! なにがすごいって、きみがバカ正直に答えたところだよ! あぁ、気に障ったのならすまない、わたしはこれでも人の虚言には敏感でね、そのくせ、本当のことを言われると機嫌を損ねる、まあ、なんとも厄介な性質をしているのだよ! いや、すまない、こんなこと大音声で語るようなことでもなかったね、本当にすまない。本当のことを聞いたのが随分と久しぶりだったからうっかり興奮してしまったんだ、悪気はない」
「………………」
 まくし立てるように一気にそれだけ言い、
「さて、それを踏まえて、わたしの戦闘時間をお教えしよう――平均五秒だよ」
 それだけで殺せるような、禍々しい視線を向けた。
 そのあからさまに嘘であろうあまりに短い時間を真実だと思わせるのに充分な、殺意、そして悪意に満ちた瞳。どれほどの凶悪犯罪者であろうとも、ここまで腐り落ちたような目はしていない。
 騎士剣を構える。間合いは約十五メートル。彼ならば詰めるのに一秒――否、最速で行けば万分の一秒もかからない。
「おっと、そういえばきみがすでに剣を携えているというのに、わたしときたら持ってもいないじゃないか」
 それを見たミストは本当に可笑しそうに相好を崩すと、恭しく剣を手にした。
 それは長さ一メートル、幅二センチほどの刀身を持った、棒に近いような剣。
 刺突剣エストックという、斬ることを度外視し、打突のみに重点をおいた剣である。
「さてさて、ご覧のとおり、わたしの剣は攻撃一辺倒のものでね、実はまったく防御できない。まぁ、刺突剣に防御を求めるのも酷だとは思うがね。さておき、わたしの戦闘時間が平均五秒というのはつまり、相手が攻撃を開始してからおよそ五秒でカタをつけたということなのだよ。――ほら、攻撃しかできない人間だからみんな先手を取りたがるのさ」
 しかし青年のほうはミストの話を全く聞いていない。頃合を計っている。
 彼の《ブレイド》の能力は《高速移動》だ。地に足を付けて駆ける限り、亜光速に近い速度まで出すことができる。だがそのためにはタメが必要だった。今から踏み込んでも音速を越えた速度は出すことができるだろう。
 しかしその程度の速度でどうにかできるものなのだろうか?
 彼女から向けられる威圧感は並大抵のものではない。それこそ、それだけで弱い者なら死んでしまうだろう。
「まあ、そういうわけでね。きみも好きに攻撃してくるといい」
 にこやかに、艶やかに。あるいはその威圧は慈悲なのかと思わせるような笑みで。
 ミストと名乗った女性は先手をあっさりと譲った。
「ならば――」
 魔力をフルに回す。注げるだけつぎ込んで今発揮できる最大速度で突撃する。
 秒速にして二十三キロメートル。もはや目にも映らぬ速度で以って!
 足に力を、そして魔力を込め、踏み込――
「ご!? ……ボぉ」
 んだ瞬間、否、そのほんの、コンマ数ミリ秒手前。
 彼は血反吐を口からこぼした。
 ぱたた、と血が大地を打つ、軽い、本当に軽い音がした。彼の命の重さはそれだけしかないと蔑むように。
「いやすごい! 本当にすごいよ! きみ! まさか自動発動が発揮される敵と会うとは思っていなかった! ははははははは!!! きみは正直な上にとても強かったんだな!
いやいやいやいや!! 全くすごい!」
 すごいと連呼する彼女の手の《ブレイド》はいつの間にか濡れていた。
 赤く 赤く、赤く――!!!
「ば……かな……」
 喋った拍子にさらに血がこぼれていく。もはや意識を保っていられない。
 ――死ぬ。
 こんな! こんなところで終わるわけにはいかないというのに!
「あぁ……よもやこんなに愉しいことがこの戦いで味わえようとは! はははは!! いやほんとうにすまない、興奮が止まらないんだ、えぇと……ああ、すまない、きみの名前を忘れてしまった、ともかく、きみ!! いや、あはははははは!!」
 哄笑を轟かすミストは死にゆく相手をしかし全く目に映すことなく、ただひたすらに愉悦に震えている。
「忘れてしまったお詫びにせめてわたしの《ブレイド》の名だけでも黄泉路の道連れにしておくれ! こいつの名前は《アズ・タイム・ゴウズ・バイ》!! そう、きみの死は、時がいつでも流れているように、神が定めた摂理というヤツさ!!」
 剣を片手に手を広げ、嗤笑を高々と撒き散らす。
 とうに青年は事切れ、その高笑を聞く者は誰もいない。
 だがミストは――御主人と名乗った女は、文字通りにこの空間の主であることを強調するようにいつまでも笑い声を響かせていた。

        ‡

「う……そ……」
 本に送られてきた次の対戦相手の情報を見たみかんはかろうじてそれだけつぶやいた。
 日付はすでに金曜に変わり、維遠はとっくに登校している。
 あのあと、カナカは自宅に戻った。さゆりは結局目を覚まさなかったのでレヴェッカに任せ、さきほど自宅に帰したと連絡があった。維遠が登校する直前のことだ。
 どちらも今のところ目立った後遺症は見られない。予断を許すものではないが、ひとまず安心というところだ。
 それから維遠を送り出し、これからのプランを立てていたのだ。凄まじい速度の成長だが、あれはどう考えても維遠の体に負担を強いる。
 魔術の効果にせよ、《ブレイド》の効果にせよ、だ。
 だから、維遠自身の基礎体力をつけるようなメニューを考えていたのだ。
 それを邪魔するようにコマンドに情報が送られてきた。
 送り主は次の維遠の対戦相手。送られてきた情報はその対戦相手の戦闘そのもの。
 すなわち、威嚇だった。
 その目的の半ばは達せられたと言っていいだろう。みかんはすでに降伏することを考えている。降伏できずとも、維遠を戦わせない方法を思考している。
 維遠の《ブレイド》がいかにデタラメでも勝てるわけがない。
 相手の《ブレイド》は、瞬間移動に近い移動速度を実現するものだった。
 あの距離、あの間合いをほぼゼロ秒で詰め、相手を討ち取れるだけの速度。どんな高速で対応しようとも相討ちは免れないであろう、その速度を。
 あの刺突剣は一方的に穿った。
 それはつまり――
「時間の跳躍……」
 速度という概念を跳び越えたということだ。あの《ブレイド》は青年が移動を開始する少し前の青年を、貫いたのだ。
 それもその場にいながら。時間だけでなく、空間をも飛び越えた可能性がある。
「……限定兵装!」
 穿たれた箇所から推測して、あれは《心臓を貫くこと》に特化したものだ。
 限定兵装とは二度目の対戦だが分が悪すぎる。あの《ブレイド》相手には相手に気付かれる前に倒さなければならない。否、自動発動が本当なら、あの《ブレイド》には勝ちようがない。
 さらに絶望的なことに。
「――――維遠!?」
 すでに彼女は維遠と接触していた。

        ‡

「やあ! 初めまして!」
 突然現れたその女は愉しそうに、どこか初日の殺人鬼の男を髣髴とさせるテンションでそう言った。
 三限目の途中。結界が張られたその直後。張る前に現れなくて本当によかった。
 さらさらと流れる黒い髪を腰まで伸ばし、艶やかと言うよりも妖しいと言ったほうがより正確に彼女を言い表せられるだろう、エロティックでなによりサディスティックな雰囲気。そこにもどこか初日で対峙した男に近いところがあるが、決定的に――
「わたしは御主人。御主人様の『御主人』と書いて《ミスト》だ! ほんの少しの間だけど、よろしく」
 ぞわりと恐怖が背中を走り抜けた。
            ・・
 ――決定的にこの女は、正気だ。
 妄念ではなく、信念で彼女はあの雰囲気を醸しだしている。それがどうしようもなく、理解できてしまった。狂気だと誤解していればまだなにか足掻けただろう。
「――――……」
「ああ、きみの名前はいいよ。わたしはとても物覚えが悪くてね、興味のないことはすぐに、本当にすぐに忘れてしまうんだよ!!」
 敵として見ていない。目の前の対戦相手を敵などという障害だとみなしていない。
 小石だ。行くべき方向に転がる小石。無視するも、蹴飛ばすも、彼女の気分次第。
 そして維遠は間違いなく、彼女に対抗する手段はおろか、対応する手段さえ持っていない。
「と。ここでは少々手狭だな。場所を移そうか」
 勝手に決め、そして勝手に去って行った。背中を見せて、そしてそれでもなお問題ないとその背中は語っている。
「………………」
 彼女の《ブレイド》がどれほどのものかわからないが、少なくともこれまでの対戦相手が保有していたような、戦うためのものではないだろう。
 否、戦えるもの、と言うほうがいいか。
 それは維遠の感覚ではない。維遠の内で眠るものが警告として教えてくれている。
 お前では戦うことすらできない、と。
 だからといって降りることもできない。そも、降伏は天使が了承しなくてはいけない。
「…………ま、しゃあないか」
 一言つぶやき、その背中を追った。
 行きついた先は生徒昇降口の正面の中庭になっているところだった。たしかに、剣戟を交わすだけならばここで充分だ。通常の刀剣での話だが。
「さてさて、それではわたしの《ブレイド》のお披露目といこうか!!」
 大仰に手を広げ、右手に《ブレイド》が握られる。
 刺突剣エストック――!!
「…………一撃必殺ってことか」
「ご名答! いやはや察しがいい!! 素晴らしいことだよ!」
「そらどうも」
 全く嬉しくない称賛もあったものだ。洞察力があっても無駄になるとほのめかしているのだから。
「この《アズ・タイム・ゴウズ・バイ》は確実に相手の心臓を貫く《ブレイド》さ。どんな防御も無視してね。そしてわたしの魔力特性マナカラーは《空間と時間》。――言いたいこと、わかってくれるね?」
「勝てないってことね」
「正解!! いやはや素晴らしい!」
「――いちおう聞きたいんやけど」
「ほう。なんだろうか?」
「どの程度、空間と時間は捻じ曲がるのん?」
「わたしが死なない程度、さ」
 つまりはこちらが致命的。文字通りの必殺というわけか。
「むろん、抵抗してもらって構わないよ。もっとも、最長で七秒ほどだったけれど」
「それだけもったんがスゲェよ」
「ああ、彼はなにせ、防御が凄まじくてね、突破するのに時間がかかってしまった」
 そのときを思い出しているのか、恍惚とする。
「――ふむ」
 そして、不意に、真剣な表情に変えた。戦う意志を見せたそれ。
「もう追いつくのか。さすがに天使だな」
 つぶやき、維遠を視界に入れる。その段になって維遠も気付いた。みかんがこちらに向かっている。
「もう少し話していたかったが――仕方がない。さよならだ」
 言って。
「わたしから攻撃するのはこれが初めてだな、そう言えば」
 感慨もなく。
「が……!!」
 血の塊が、口からこぼれた。
 視界に入るのはいつのまにか血に濡れた刺突剣。
 間合いも何も関係なく。
 刺すためだけの剣は維遠の心臓を違うことなく貫いた。

        ‡

 制限された力を限界一杯まで使って、半ば反則気味に天使の力を使って。
 走って! 奔って! 疾って! 跳んで! 飛んで! 翔んで!
 維遠のところに辿り着いたとき。
 目に入ったのは地に伏した維遠の体とそれを悠然と眺める女の姿だった。
 辺りを覆う濃密な血の匂い。静脈ではなく動脈のそれ。
「ふむ。やはりヒジゼルの言う通り、あなたは危険な天使なようだ」
 のうのうと維遠を殺した女は言った。
「本来、天使は戦闘行為を行えないのだろう? にもかかわらずその機動力、なによりその殺気。あまりにもイレギュラー過ぎる。ともすればわたしを殺しそ――」
「黙れ」
 ふらふらと近づく。もちろん、維遠に、だ。
 文字通りにぶち撒けられた血液の匂いがどんどん濃くなっていく。まるで空気が血のようで、そういえば、少し空気が赤いかもしれない。
 足元に維遠の体があると知って歩みを止めた。
 背中に孔が。
 どくどくと、しかし血は胸から流れ、今やその量は微々たるものになっている。体に流れるべき量が残っていないのだ。
 ――ああ。
 もはや自分の感情がどこに向いているのか理解できない。
 ただ。
「コロス」
 殺意だけはあの女に向いているに違いない。
「死ネ」
 一瞬もかけずに間合いを詰め、右手を奴の首に添え――
「やめろ」
 その手を誰かに掴まれた。ほんの少し触れただけで首の骨を粉砕できたというのに、その手はそれさえも読んでいたのか、本当に触れる直前で止めた。
 あるいはそれが限界だっただけかもしれない。早くに掴もうと足掻いた結果、偶然、手がそれに触れる前に到達できただけ。
 いずれにしろ、その、維遠の手は力強く、なによりも必死だった。
「勝手に殺すな。俺も、そいつも」
 聞こえないくらい小さな声。血がのどに詰まってしまっているのか、ごぼごぼと空気のもれる音のほうが大きい。
「う……」
 今日、二度目の『嘘』というつぶやきを、
「バカなッ!!!」
 女の叫びが掻き消した。
「わたしの! わたしの《アズ・タイム・ゴウズ・バイ》は確実にお前を貫いたはずだ!
なのに! なのになぜ生きている!!」
「あー……? 俺の心臓はとうに無くなっとうわ」
 答えながら、立っていられないのか、みかんに寄りかかる。
 いかに生きているといえども、失血によるダメージや貫かれた痛みそのものが無くなるわけでもあるまい。
「なん……だと?」
「維遠の《ブレイド》は内在型パラサイト。寄生した箇所はまるごと《ブレイド》と摩り替わる。そちらの《ブレイド》の性能が上ならそれでも殺せたんでしょうけど……」
「俺が選んだ《ブレイド》は特級品やから……そうそう壊れんよ」
 口を血だらけにしてみかんの言葉を継ぐ。
「フ……ふハハハハハハハハハハハハ!!! なるほどなるほど!! 殺しても死なないんじゃどうしようもない! ははは! とんだ《ブレイド》が居たもんだ! そうかそうか! いかに時が流れようとも逆らうものは必ずいるということか! そして時は逆らうものにも寛容だ! それはただ流れるのみ! フハハハハハハハハハハ!!」
 耳障りな哄笑を上げる。それは本当にただ純粋に驚いたときに上がる笑いだった。
 嗄れるのではないかと思うほどに笑ったあと、彼女はじっとこちらを――維遠を見た。
「名を聞いておこう少年」
「……?」
「なに、わたしを負かしたのだ。勝者の名を知りたくとも不思議ではなかろうよ」
「……神園維遠」
「ふむ、良い名だ。改めて名乗っておこう。わたしはミスト。御主人と書いて《ミスト》だ。この世の全ての主たる存在さ」
 言うだけ言って、くるりと背を向けた。隙だらけの、殺してくれと言わんばかりの背。
「別に殺してくれても構わんぞ? 《アズ・タイム・ゴウズ・バイ》は一日一回しか使えん。魔力も根こそぎ持っていかれるからな。ちなみにわたしのウォッチャーがどこにいるのかはわたしも知らん、じゃあな」
 こつこつと靴音を響かせて去っていった。おそらくは結界の際で足止めをくらうだろうが、ここから維遠の家まで包むほどの巨大な結界だ。敵から離れるに越したことはないということだろう。
「ふぐッ……!」
「維遠! ちょ、ちょっと待って! すぐに、すぐに再生するから!」
 仰向けに寝転がし、手を患部にかざす。
 見た目にはなんの変化もない、ただ手を当てるだけの動作。文字通りの手当てで彼女は維遠の傷を癒す。
「――よかった。ただの刺し傷だ……」
「いや、心臓貫いてるからね?」
「わかってるわよ」
 余裕ができたのか軽口を叩く。ならばそう問題はないだろう。
「…………よし。維遠はここにいて。天使だけならわたしだけで大丈夫だから」
「俺も行くって」
 起き上がろうとした維遠を止める。
「ダメよ。致命傷なことに違いはないんだから」
 気迫が通じたのか、そのまま寝そべった。
「まぁ、ええわ。ヤバなったらわかるし」
「ありがと。じゃちょっと行ってくるわ」
 立ち上がり、気配を探る。《ブレイド》が戦っているときにこんなことをすれば足手まといになるだけだが、すでに相手方の《ブレイド》はすでにこの戦いを降りている。
 ――――いた。
 疾走する。景色は後ろへ流れ、原形をとどめない。維遠の高速移動にも匹敵する速度を制限された身でありながら発揮する。
 それは本来、ありえない動き。しかし、彼女の《ブレイド》が規格外ならば――
「わたしだって規格外だということはわかっていたんじゃないの? ヒジゼル」
 ビルの屋上に陣取った、爺の矮躯をした天使を睨み付ける。背丈は彼女と同じくらいだが、そこから溢れる天使としての力は、圧倒的にみかんのほうが強い。
 天使は見た目の年齢と生きた年齢は必ずしもイコールではない。その最たる例が目の前の老人だ。彼はみかんはおろか、シィカよりも若い。
 小学生並の体だった、飯田のウォッチャー、リグエラよりも若い。そんな若い――彼女がこちらに来てから生まれたような天使の名をみかんが知っていたのは、単純にさきほどの女が言っていたからだ。
「ほほ。だからこそこちらも規格外の人間を味方に付けたのじゃが……よもやそこまでとはの、堕天使殿」
「………………なるほど、承知済みってわけ」
「いささか苦労しましたがの。ワシのような若輩で旧世代に触れるのは禁忌中の禁忌。お陰でこのザマですぢゃ」
 自嘲するように手を広げてみせた。
 あの姿をとっているのは本人の意志ではなく、その罰だということらしい。連中は未だにくだらない栄光を盲信しているようだ。
 愚かな。
「それで? わたしの正体を知った上でなお対峙する以上、そのくだらない栄誉がお望みかしら? だったらわたし自身が叶えてあげるけれど」
「いやはや、しかしこれ以上貴女に罪を着せるのは忍びない。穏便に済ませようではありませんか」
「ならさっさと本をよこしなさい」
「ほほ。これはまた、異なことをおっしゃる。ここは未だ結界のただ中、戦のただ中ですぞ? 降伏が期待できぬなら殲滅しかありますまい」
「――なるほど? けれど、わたしは加減がヘタよ?」
「それも承知しておりますぞ、堕天使殿」
「じゃあ……遠慮なく」
 手を伸ばす。狙いはいちおう、本。
 しかし――
「ほほ」
 その手は爺の手によって弾かれた。
「ほ……ォ!!」
 驚愕に言葉を失う。当然だろう、弾いたときまではあった自分の片腕が今はもう肩口から無くなっているのだから。
 飛沫を上げて血が飛び出す。人間と同じ、赤いそれ。人との決定的な違いはそれを恣意的に止められることだろう。ゆえにすぐに止まる。
「だから加減がヘタだって言ったのに」
 そして再び手を伸ばす。すでに片腕を失っているのだ、回避するしかないが。
「魔法を使っても構わないわよ?」
 言って本を掴む。
 力を込める前に、一つだけ尋ねるべきことがあった。
「あの女はどこまでこちらに踏み込んでいるの?」
「ほほ! 貴女が心配することではありませんな! 堕天使殿!」
 答えと同時に本を握り潰す。潰す前に引きちぎれてしまったが、破壊することには成功した。
 光の泡となって消えてゆく。それについていくようにヒジゼルの姿も薄らいでいく。
「ほほ。やはりワシ程度では手も足も出んか……」
 薄笑いを顔に貼り付けたまま、爺はここから消えた。
「――維遠!」
 思い出したように学校へ戻る。結界が解けたとき、血塗れで倒れているのはまずい。
「維……」
 そこには倒れたままの維遠ともう一人。
 ミストと同じような女が立っている。決定的に違うのは背中の翼。
 真っ黒な翼が二対、大きく広がっている。
「妙な《ブレイド》には違いないけど……わたしの《ブレイド》の敵じゃあないねぇ」
 くるりとみかんへ振り向く彼女はまさに堕天使というていだった。
 髪も、瞳も、まとう衣服も、翼も、漆黒。光の存在を許さない、絶対的な黒。
 みかんが堕天使というなら、彼女はさしずめ魔王といったところか。宗教的な縛りを持たないとはいえ、あまりにもそれは正純の天使のイメージからかけ離れている。
「初めまして、我が対戦者たる天使よ。わたしはヴィジシル。黒天使のヴィジシルといえば、それなりに有名だが……さて、お前は知っているかい?」
 優雅にお辞儀をし、そして顔を上げたときには傲岸な表情を浮かべていた。
「ええ。ウォッチャーに選ばれるたび、必ず優勝する、この戦いの常連」
「それはどうも。さて。我が《ブレイド》を今日は連れてきていないのだが……どうだろう? 彼も満身創痍だし、きみはあまり彼を戦わせたくはないようだ。この場で降伏してしまっては」
「断る」
 そう言ったのは維遠だ。
 伏したままではあったが、力強く答えた。
「ほう。起きていたのか」
「今起きた」
「それはなかなか良い回復力をしている。しかし無理はやめておきたまえよ。いかに《ブレイド》が凄かろうとも使い手がポンコツではそれまでだ」
「ほっとけ」
「ふむ……」
「維遠!!」
 会話が途切れたのをいいことに維遠に駆け寄る。気にする必要もなかったが、維遠の会話を邪魔する気にはなれなかった。
「あ〜、なんかメンドいことになってきたな……」
 苦笑を浮かべ、つぶやく。これまでだって充分面倒くさい事態だったろうに。
「では、少年。こうしよう。明日の夕方……そうだな、ここから南東の方角、十数キロほどのところに大きな広場のようなところがあるだろう?」
「……南東……あぁ、市民広場? かな」
「うむ。おそらくそれだ。そこで決着といこうではないか。最後の戦いの」
「……最後?」
「わたしは最初の参加者。きみたちは最後の参加者。意味するところはただの一つ」
「……わかった。それでええ」
「では、わたしはこれで」
 やはり優雅に腰を折ると、羽ばたき、去っていった。
「維遠……」
「わり、とりあえず……寝させて……」
 再び眠りに落ちた維遠を抱え、立ち上がる。

 決着は明日。明日、全てが終了する。

 維遠の戦いも。
 彼女の願いも。

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