キン、と甲高い音を立てて、それはさながら開幕を告げる鈴の音ようだった。
赤い、楽の剣と対になりそうな激情に燃える剣が背中から殺到した。
それを、黒い、鞘に納まったままの、使い古された刀が遮った。
初手はただそれだけで終わった。
「そう。その覚悟はとっくにあったのね」
みかんは悲しそうに言った。本当に悲しそうに、泣きそうな声で。
「ない。覚悟なんか、ない」
維遠はそれに、みかんに背を向けたままで、答える。力強く、その言葉の内容と矛盾するように。
「今でも迷ってるよ。当たり前やろう。殺したぁないし、殺させたぁもない」
みかんの剣を弾き、対峙する。
もうほとんど泣いてしまっているような、涙に濡れた青い双眸。
それと対をなすような赤い剣。
目の前にいる彼女は、《夢幻》にいる彼女と全く同じで、全然違っていた。
認めたくはない。
だが現実問題として、最後の一人を決めねば、この《戦い》は終わらない。
維遠がここまでずっと目を逸らしてきた現実。
それはつまり――
「ただ一人を除いて決して殺してはならない。『ただ一人』ってのは」
「ええ。パートナーたる天使、あるいは《ブレイド》のこと。もっとも――《ブレイド》が勝った例なんて一度としてないけれど」
「せやろな。でなけりゃ、ペナルティがないわけない」
戦いの中で《ブレイド》がどれだけ殺そうとも、結果として負けるのならばペナルティの科しようがない。
――知っていたことだ。
この《ブレイド》を選んだそのときから。
だからずっと必死でそれだけを考えてきて、結局。
「――そっか。命を懸ける必要はないってむしろ」
「いいえ。結果としてそれを示唆することになったけれど、わたしは本気で維遠には戦ってほしくなかった。本当はね、《ブレイド》だけ渡して、適当に最初に負けて、その力だけを受け取ってもらうつもりだったの。ちょうど、レヴェッカみたいにね」
「それって意味なくない?」
「なくはないわ。結界でしか使えないというのは思い込みよ。もちろん、それ以上に結界外で発動しないようにはなっているけれど、絶対じゃない。だからいつか、それが役に立つときが来たら、役に立ててほしかった。こんな戦いで使うんじゃなくて」
戦いの最中だというのに目を逸らす。もちろん、そんな程度の隙でどうにかできる相手ではないが。
「結局、維遠はわたしの予想をはるかに超えて強くなった。《ブレイド》のお陰かもしれないし、維遠の才能によるところもあるのかもしれない。ともかく、維遠は、誰も成し遂げなかったはずの最終参加からの勝利を飾ってしまった。――いいえ。わたしが飾らせてしまった。あのとき、わたしが勝利を欲さなければ……!!」
「それでも勝ったと思うけどな」
ニヤリとして言ってやった。
「みかんを守るって言うたんやから、負けてお前が危険になるような選択はたぶん、せぇへんよ」
「……だったとしても。その気になればわたしは維遠を止められたもの」
「ふぅん……。でもま、ここまで来たもんはしゃあない」
「ええ」
互いに武器を構える。
「一つだけ聞いておくわ」
「この戦いだけはどっちかが死ぬまで終わらんやろ。それでええやん」
「………………。そう」
それで、もう悲しそうな顔は引っ込んで、覚悟を決めた戦士の表情へと変わった。
「勝算は?」
「少なくともこれまでの連中よりは」
所詮、《ブレイド》は《ブレイド》。道具たる維遠たちに使い手たる天使に勝てはしない。それでも。
「《オーラ》の正体は掴めたか?」
「……いいえ。でも、あの程度なら問題ないわ」
「ふぅん……じゃ、どれくらいやと問題になる?」
「なんのつもりか知らないけれど、維遠。少しだけ絶望的なことを教えてあげる。せめて中途半端な抵抗をしないように」
構えを解き、一つ息をつく。
「わたしたち天使は死なないわ。それは《ブレイド》を以ってしても難しくて、そして私たち自身ですら容易には同胞を殺せないの」
知っている。
「その中でもわたしは特別に死ににくい。かつ、殺しにくいはずの同胞を簡単に殺せる。わたしがこの世界にいるのはね――いえ、わたしの世界にいられないのはね」
「世界中でたった二人だけが望んだことをその手で叶えたからやろ」
「!!!」
「知ってる。みかんがここにいる理由。おそらくはこの《戦い》の果てに望むもんも」
戦争があった。
どのくらい続いているのか、長命な天使たちが、もう誰も知らないくらいに続く、永い永い戦いがあったのだ。
ソイツは戦いが大嫌いだった。
大嫌いだから戦って終わらせようとした。
戦って戦って戦って戦って戦って戦って!!
やっぱり終わらなかった。
それだけのはずだった。
なのに。
「お前が終わらせたからやろ。お前が殺して殺して殺して殺して殺して! 殺しまくってやっと終わらせたからやろ。――それが重罪やってわかってても」
ソイツじゃない誰かが終わらせてしまったのだ。
「――《オーラ》いうんは俺が勝手につけた名前やけど、これってアレやろ? 天使の持ってる基本能力なんやろ?」
「――――――」
「それやったら答えは一個やと思うんやけど」
「だけれど。それを完全に扱えた《ブレイド》はただの一人もいないのよ?」
「いいや。きちんと相応の《ブレイド》を選ばんかったからや」
「――――……。つまり」
「そう。俺が選んだ
魔力特性は《認識と実在および不在》で、俺が選んだ《ブレイド》はコイツ」
それだけが無限に存在する組み合わせの中で唯一の解。
ただ一つ――
「天使に――いや、みかんに匹敵できる組み合わせ。コイツが魔力特性を強化し、魔力特性がコイツを充分に引き出す。その循環に至れるかどうかがカギやったんやけど」
「維遠は十二分にやった、と」
「かどうかは今からわかる。――ぶっちゃけ。今の俺のままやと二秒くらいしかもたへんからな。悪いけど、本気でいくぞ」
「当たり前よ。維遠はあくまでチャレンジャー。前人未踏に至れるかどうかの、ね」
「んならありがたく。――
天使降霊」
言葉と同時、維遠の全身が光に包まれる。
‡
彼女らの抱える狂いは、しかし、その戦争が始まる前からあった。
つまり、死を最上の美徳と称え、殺しを最悪の罪と断じていたのだ。
その矛盾。それが戦火を広げる結果となった。
そして、他と同様に、ソイツもやっぱり怖ろしかったのだ。
どれだけ平和を望み、諍いを忌避しようとも、己だけが罪人と断じられることだけは避けたかった。
誰もが思うエゴだ。
戦争を終結させるには誰かを殺すことが必要で、けれど殺してしまっては自分の正義を主張できない。
だからいつまでもいつまでもその戦争は終わらなかったのだ。終わらなくて、日常になってしまった。
日常を終わらせることなど誰にもできない。
ソイツも戦争というものは終わらせたかったけれど、日常を終わらせることは望んでなかった。
叶わないと心の片隅で思ってしまっていたのだろう。
手段はあった。けれどその手段を取ることができないのなら、どうしたって目的には辿り着けない。
はずだったのに。
ふとした拍子に己の想いを吐き出す機会があった。
相手はどこにも属さない自由騎士で、陣営を固定していないことを除けばソイツと似たような境遇だった。
ただ、ソイツとは致命的なまでに違うということに気付いたのは。
――彼女が殺しを犯した後のことだ。
結局。
彼女は山ほどの同胞を殺した。戦争を終わらせるのに充分なだけの、重要な人物を殺して、優秀な人物を殺して、そして最後にソイツに捕まった。
笑って捕まって、黙って裁かれた。
死を賛美する彼女らに死刑という刑罰は存在しない。ひたすら苦痛を与えるのみ。
だから、彼女に下された罰は、終わることのない苦痛を伴った上での、異界への追放。
痛みというのは、文字通り、体中をくまなく走る激痛で。
苦しみというのは、見たくもないものを見続けること。ようするに。
誰かが死ぬさまを見続けること。
だから。
この《戦い》における、真の
監視者というのは彼女のことで。
この《戦い》そのものが――彼女のための罰なのだ。
己の正義を、否、
願いを叶えた、あまりにも重い、代償。
それを知ったとき、ソイツはただ誓った。
‡
「今度はわたしがあなたを助けてみせる、と」
維遠を覆う光が収まったとき、そこにいたのは維遠とよく似て、そして全然違う、少女だった。
背中まで伸びる長い黒髪を一つに束ねて、漆黒の瞳を青い瞳に向けて。
手にする武器もあいまって、戦士というよりも武士といったほうがイメージには近い。
「お久しゅうございます。ミヒイェル様」
本当に久しい時間。悠久を思わせる時間を隔て、彼女はたった一人の同志に再会した。
「ええ、本当に」
目を伏せ、ほんの少しだけ笑みを浮かべ、みかんは答えた。
「その名を知っていて、なおかつ口に出せるのは、もうあなただけでしょうから。そのくらいの時間が流れてしまったものね」
「そうですね」
穏やかな空気が流れ、懐古の感情が二人に見え隠れする。
「そっか。たしかに、あなたをここへ呼んでこれるなら、いままでの《ブレイド》の誰よりも勝算はあるわね。もっとも――」
「相手があなたでなければ、ですが」
「ええ。わたしとあなたと、ブランク期間はほぼ同じ。なら、最初から少しだけ強くて、《ブレイド》に左右されないわたしが有利なことに変わりはない。それでも戦うの? ゲフィユル」
「はい。あのときできなかったことを、今、果たしたいと思います」
黒い刀はようやく、本来の持ち主へと返った。それをわずかの隙もなく構える。
「――見たことがあるはずよね。形状が変わったところでそれはあなたのものだもの」
「維遠はよくやってくれました。人間の身でありながら天使兵装を扱う危険を理解しながら、それでも迷わずにわたしを選んでくれた。そしてここまで扱ってくれた」
「……一つ聞いていいかしら?」
構えることもなく、みかんは口を開く。
「どうぞ」
「わたしはあなたの《ブレイド》を見たことがなかったのだけれど……いつからいたのかしら?」
「最初からですよ。あなたがあそこを追放されてからずっと――剣としてあなたを見ていました」
「一度も選ばれることなく?」
「今回は選ばれました。そして、選びました」
ゲフィユルのその言葉にみかんがぴくりと反応した。
「選んだ? あなたは使い手を選ぶの?」
「はい。あなたをこの罰から解放できるのはわたしだけですから」
「………………。それはつまり、わたしを殺す、ということでいいのかしら?」
「それ以外に、この罰の終わりはやってきませんから」
悲しげで、不敵で。
この二人は本当によく似ている。
違っていた部分をさらす要素がなくなったことで、お互いにより近くなったようだ。
「そう。でもわたし、死ぬ気はないの。許される気も」
「………………。いいえ。死を以って贖えない罪などありはしない。それがただ一つの贖罪ならば――わたしは喜んであなたを殺す咎を犯しましょう」
「まぁ……言葉でどうにかできるなんて思っていないわ」
「はい」
ゲフィユルの答えと同時にみかんが構える。
赤い、血に染まったかのような剣。
「維遠には悪いけど……せっかくここまできたんだもの。勝たせてもらうわ」
「同じく」
互いに不敵に笑うと――
硬音を響かせて最後の戦いが始まった。
‡
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
蟲が血管を這い回る。ザクザクと管を切り裂きながらのた打ち回り、ゴクゴクと血を飲み干しながら蠢き、嗤う。心臓は大切に大切に喰いちぎられ、四肢の隅々まで丁寧に丁寧に敷き詰められている。脳漿はすでに枯渇し、痛いと思う心はとうに干上がっている。薄気味の悪い感覚だけがカサカサに乾いた体を駆け巡り、曖昧な感情は食い破られた体表からゴボゴボと零れていく。あらゆる感覚感情感性感想感応が矛盾しながらどことして綻びのないまま交錯していく。もはや『自分』などというわけのわからないものはいない。あるのは生まれる前から存在するはずの生の感覚。それが――……
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
蟲が筋繊維を走る。じくじくと筋を食い荒らし、むしゃむしゃと脂質を咀嚼して嚥下していく。歓喜に咽び泣き、けたけたと笑い声を上げる。脳は一番初めに無くなり、痛覚だけはいつまでもいつまでもいつまでも消えることなくどんどんどんどんどんどん強く強く強く!!! 肌の裏側から撫でられる感覚だけを残して、零したい涙はけれど一滴も残っていない。あらゆる音域の声を張り上げる喉はいつのまにか蠱に取って代わられている。
――当然のことだが。
人間が天使の真似事をするということは相応の代償が必要となる。
その代償を最小限に抑え込んだものが《ブレイド》だが、その《ブレイド》ですら代償を要求するものがある。
例外は多々あれど、天使たちにとっても《ブレイド》にとっても有名なのは
内在型と呼ばれる種類の《ブレイド》である。
要求する代償は痛み。
内在型はたしかに人体の各所に寄生するが、それは文字通りの寄生ではない。
寄生した器官と丸ごと取って変わるのだ。
その喪失の痛みこそが内在型《ブレイド》の要求する代償。
ゆえに、心臓を差し出した維遠は最上級の《ブレイド》を携えていることになるが、驚く点はそこだけではない。
その程度の代償を捧げる《ブレイド》は過去にいたのだ。
・・・
維遠は自分の願いを自分で叶えるために、さらに代価を支払った。
すなわち――人間としての生。
天使の生前の武器である
天使兵装を扱うには人間ではなく、天使である必要がある。
その条件を満たすために、彼は人間であることをやめた。
それが壮絶な痛みを伴うと知りながら。
今、体は
天使となっている。それは彼の魔術によるものだが、たしかに、それは天使の体なのだ。
人間の体であれば、その痛みは幾分誤魔化すことができるが、本物の天使の体を使いながら痛みを和らげるようなことは維遠にはまだできない。
それゆえに。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
生命の限界を超えた痛みを、超生命であるがゆえに耐えてしまう体を持て余しながら、維遠はゲフィユルとともに戦わねばならない。
維遠にとって戦いとは、自身を襲う痛みに耐えることに他ならない。
それは己の限界との戦い。
ほんの少し踏み越えればあっという間に自分が消えてしまう、その恐怖と愉悦との戦いなのだ。
その自己消滅の前に――
「――――――………………みがん………………!!!!!」
彼女を救わねばならない。
この狂った罰からも。
方法を間違えているゲフィユルからも。
なにより。
彼女自身から。
時間は、残り少ない。