Boymeetsgirl

 殺風景と言ってこれほど殺風景なところは地球上のどこを探してもないのではないのだろうか。
 なにしろ何もないのだ。
 人はもちろん、それ以外の生物も建物や道さえ見当たらない。
 そもそも地平線すら存在しない。
 地面と空という区別すらこの場所――いや、指定すべき座標さえ定まらないのであれば空間というべきだろうか、とにかくここには文字通りに何もない。
 一面、見渡す限り真っ白な世界。
 そんな上と下さえ曖昧な世界に一人の少年が立っている。
 顔と背丈から判断するに中学生か高校生。黒い髪のどこにでもいそうな平凡な少年。
 彼――神園かみぞの維遠いとが立つことでその世界はかろうじて上下の判別だけはできた。
 だが上下があるくらいではこの気持ち悪さはどうしようもない。
 この世界はあまりにも変化に乏しい。
 視覚はただひたすらに白。自分を見るとかろうじて黄色人種の黄色が確保できるが、着ている服もなぜか白で、気持ちが悪い。
 匂いもない。手を鼻に持っていくとなんとか自分の匂いらしきものは感じられるがそれ以外は無臭。
 味など言うまでもなく。
 それでも足元には踏んでいる感触があるし、手足を動かせば空気の抵抗を感じることもできる。
「え〜と……」
 少しわざとらしいくらいに声を出す。思ったとおりに声が出る。思い出したように深呼吸もしてみる。
 全くの無色無音無味無臭であることを除けばいつもと変わらない空間であるらしい。
 それだけの情報源がないこと自体異常なのだが、冷静に混乱しているのかそれとも元々リアクションが薄いのか、維遠はそう判断した。
 とにかく今すぐに死ぬというような危険性はない。それだけは確かだろう。
 だがそれだけだ。いつからこの異空間にいるのか記憶がない。気付けばここでぼんやりと立っていた。それからどのくらい時間が経ったのかさえあやふやだ。
 変化がなさ過ぎる。あまりにストレスが少ないとそのことが自体ストレスになるというが、ここはまさにそれだった。あまりにも変化がない。自分以外に動く要因がないという世界がこれほど異質だとは。
 まるで夢のようじゃないか。
「……というか夢か?」
 あまりにも感触は現実的だが、この白色が事実だと考えるよりは夢だと思うほうがまだ説得力もあるし、矛盾するようだが――現実的だ。
 しかしそうなると少々面倒くさいことになる。
 維遠にとって夢とはほぼ確実に明晰夢――夢を見ていると自覚して見る夢――であり、夢の中で再度『夢の中にいる自分』が「これは夢だ」と自覚することは普通ない。これが夢であるなら夢を見ている自分が「夢だ」と思っていなくてはいけない。
 が、そういうことはない。ここで「夢かどうか」と思考している自分はほぼ間違いなく主体としての神園維遠であり、五感をそなえた人間であるところの神園維遠である。
「む。ややこしい」
 高校入学までまだ一週間ほど猶予のある彼にしてみれば、いかに思考ゲームが得意とはいえ、主観と客観についての思考は難しい。学歴のある大人がしたところで難しいだろうが。
「ま、とりあえず夢やとしよう」
 関西系のイントネーションでそう仮定する。
 つまり十数年ぶりに明晰夢でない夢を見ているということだ。そういう夢がどういうものであるのかよく覚えていないから、本来、夢とはこういうものだったのかもしれない。
 自身の感覚が現実的で周囲の状況が非現実的なら、非現実のほうを正しいと考えたほうが健康的だろう。現実だとすると――
「――く」
 目眩がする。比喩でも誇張でもなく実際に目が回る。あまりにも均質でなおかつ変化しない風景に視覚が混乱しているのだ。
 耳鳴りもする。完全な無音状態は逆に音がするというが、その正体は少なくとも今の彼にとって耳鳴りだった。
 目を瞑り、声を出す。
「俺の名前は神園維遠。今月から私立朱陽学院高校に通う一年生。男」
 念のため確認する。……ついてる。
「ふむ……」
 今日が何月何日か考えようとしてあまり意味のあることではないと気が付いた。
 起きれば四月二日の朝のはずだがこれが夢であるなら現実との連続性はない。だから確認を取るのならばこの空間における時刻である必要があるが、何もない空間に時間という概念が備わっているのかがまず疑問だった。いや、変化の一つである維遠が存在するのだから概念は存在しうるが、客観的な基準というものはなさそうだ。
「……あー……ややこしいからやめよ。時刻不明」
 とりあえずそれで片付ける。
 それからもう一つ思い至ったことを考えることにした。
 連続性という言葉を使ったときによぎった考えであるが、正直、気は進まない。
「死後の世界……」
 口に出して、それにしては味気ないと思う。地獄の一つだと言われれば納得できるものがあるが。
 けれどその思考はおもしろい。
 死後でなくともどこかの世界に飛ばされた。それ自体はわくわくするようなことだ。
 平行世界の存在は量子学的には肯定されている。ただし、それらは『平行』ゆえに絶対に交じり合わない。存在を仮定することはできても、観測することはできないとされている。つまり、絶対にたどり着けないはずの世界に維遠はなんらかの理由で行き着いてしまった。けれど。
「どうせやったら」
 この世でただ一人尊敬する架空の人物の実在する世界に行きたかった。
 もっとも、そうなったら維遠は死ぬだろうが。
「剣やら魔法やらとは縁遠いからなぁ……」
 それでなくともケンカや格闘から離れたところで生活しているのだ。そもそもそういうものを夢見ている時点である程度インドア派であることはうかがい知れるだろう。
 浮世から遠く離れた真っ白い世界で、さらに遠くへ思いをはせる。
「じゃあもしもそういう世界があなたの世界にあったら?」
 後ろから声がした。振り向く。
「こんにちは」
 鈴を転がすような澄んだ声で目の前にいた少女はそう挨拶した。
 ここに来てようやく現れた白以外の風景だったが、それでも彼女も系統で言えば白だった。
 色の抜けたような金髪は肩にかかり、髪と同じように色素の薄い肌はゆったりとした白のワンピースで包まれている。
 間違いなく美少女。北欧辺りにいる美少女を百倍くらい可愛くすれば彼女のようになるかもしれない。それでも彼女にはなりようがない。
 彼女以外の人間は彼女ではないからという理屈っぽい話ではない。物理的に彼女と人間は別の存在だと知らしめるものを彼女は持っている。
 それが彼女の何よりも維遠の気を引いていた。
 大きな羽。純白の、後ろに広がる空間よりも、彼女の纏う衣服よりも、ずっとずっと綺麗な白色。彼女の背丈と同じかそれ以上に大きな翼。
 それが維遠から見て右側、彼女の左側にだけゆったりと伸びている。
 怪訝な顔を浮かべるよりも早く、それに見惚れた。間の抜けた顔を浮かべているという自覚があるが、どうしようもない。惹きつけて放さない。それだけ見事な羽だった。
「う〜ん……そんなに見つめられるとさすがに恥ずかしいかな」
「あ、スミマセン」
 慌てて目を逸らす。今のはかなり不躾だった。そんなつもりはなかったがちょっとやらしい視線だったかもしれない。あるいは露出させている肩を見られていると思ったのかもしれない。なんにせよセクハラだった。
「んーん。謝るほどのことじゃないよ。思った以上に落ち着いてるんだなって思っただけだから」
「そうですかね?」
「まあ、わたしから見て、ってことだから」
「はあ、どうも」
「どういたしまして」
 にこりと微笑んだ。それにまた見惚れる。周囲の非現実さがまだありえると思えるほどにかわいらしい。それくらい非現実的なかわいさ。嗚呼、きっとこれは夢だ。
「む。人の顔をまじまじ見るのはいいとして。なんか失礼なこと考えたでしょ」
「え? あ、いや、スミマセン」
 また慌てて目を顔ごと逸らす。やはり不躾だった。そんなつもりはなかったがかなりやらしい視線だったかもしれない。顔を見つめていただけでセクハラで訴えられてはたまったものではないが。
「別に謝るようなことじゃないけど。いちおうわたしも実在の人物なんだけど」
 維遠の思考を読むように憮然として言った。思考を読むくらいはしてきそうな感じはある。たぶん天使だし。
「いや……」
 視線が羽に移る。これを前にして実在と言われても納得いかない。作り物の気配が一切しない。そのくせ微動だにしないのはどういうことか。
「まあいいわ。たしかに維遠にとってはここは夢でもあるものね」
「………………」
 自分の名前を知っていることくらいはいいとしよう。天使である。末端の人間の名を覚えることにどの程度意味があるのかわからないが、彼女らは概ね人間より高性能であるように描かれることが多い。彼女らにしてみればその程度のこと、造作もないのだろう。だから自分の名を把握しているのは構わない。
 この状態になっている原因もおそらく彼女だろう。
 それよりも。
「夢で『も』あるってなんですか?」
「その前に。維遠、その中途半端な敬語やめて」
「………………」
「やめて」
「じゃあ、夢でもあるってなに?」
「うん、そんなかんじ」
 また、にこりと笑う。漫画だったら背景に花が咲いているだろう。
「ここはね、《夢幻》っていう、まあ、夢と現実の境界みたいな世界。わたしたち天使にとっては現実なんだけど、維遠たち人間にとっては夢である場所」
「ふぅん」
 やはり天使だったのかと思う。ここがどういうところなのかはよくわからない。
「そのわりには臨場感がすごいけど」
「正確には夢っていうか、幽体離脱って言うの? 意識だけが別の空間にいるって感じなのよ。その空間の名前が《夢幻》って言えばいいのかなぁ?」
「現実にある空間やけど入っていけるんは意識だけみたいな?」
「そうそう。天使はぶっちゃけ人間よりすごいからそのままでも入れるけど、人間は意識しか入れないくらいヤバイ場所と言うか」
「ふ〜ん……」
「まあ、でも、基本は現実そのままよ。叩かれたら痛いし」
 ぺしっ、と肩を叩かれる。
「致命傷を負えば死ぬわ」
 片手を首に添えられる。けれど言葉とは裏腹にそれはとても優しい接触だった。
「まあ死ぬのはあくまで意識だけで、それにしたって夢の中で死ぬようなもんだから、すぐに目覚めるんだけど。ここか現実でかはともかく」
「………………」
 緊張する。
 女の子と接する機会の少ない維遠にしてみれば、異性に触れられるなど数年ぶりのことだ。それも手以外となると今まであったかどうか。
「あの……」
「なに?」
「手……」
「わたしに触られるのは嫌?」
「イヤやないけど」
「けど?」
「き、緊張する……」
「……ふぅん……」
 にやり、と笑った気がした。妖艶と言うには容姿が幼い――維遠よりもまだ若い、中学生か小学生の高学年くらいだ――が、その笑みは妖しいものだった、気がする。
 それは一瞬のことで、今は人差し指を口に当ててなにか考えている様子だ。
「ま、いっか」
 ぱっと手が離れる。少しもったいない気がした。次の機会はいつだろうか。
「で、まあ、維遠をここに呼び出したのはわたしなんだけど」
 やはりそうだった。
「なんか用?」
「当然。そうでなきゃ人間とかかわりを持っちゃダメなんだから」
「はあ……」
「えっとね」
「うん」
「わたしを守ってほしいの」
「無理じゃないですかね?」
 即答した。『まも』の辺りでスタートを切ったと言っても過言ではない。
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「守ってほしいの」
「無理だと思うよ」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
 きゅっ、と首の辺りで音がした気がした。
「守ってほしいの」
「考えさせてください」
 もちろん、気のせいだ。
「ええ。いろいろと説明するからその上で決めてちょうだい」
「………………」
 実際には離れていたはずの手があって――次の機会は予想以上に早くて――ちょっとビックリするくらいの力が込められただけだ。
 ビックリして耳が大きくなったらおもしろかったが、むしろさっきついてるか確認した男の子がしぼんだ。きゅっ、と。五ミリくらい。
「さて……どこから説明したものかしらね」
「………………。とりあえず俺の身体能力は把握してるやんな?」
 中肉中背、九年間の学生生活で運動部だった経験は小学五年の時の卓球部のみ。体育の成績は真ん中よりもやや下、女子の平均値をほとんどなぞるような自己記録を持つ維遠は間違いなく誰かを守るようなタイプではない。よっぽど華奢な女の子の盾――というよりも数秒の時間稼ぎくらいが関の山だろう。彼女はたしかに華奢な体つきをしているが、たった今、握力でもって証明した通り維遠よりはよほど強そうだ。維遠にあんな力はない。
「もちろんよ。そうね、そこからいきましょう」
 一つうなずいて、片羽の天使は右手の人差し指を自分の顔の横で一つ振った。
「さっきちらっと言ってたでしょ、剣と魔法が……、って」
「いや、まあ、縁遠いってことやけど」
 維遠の暮らす世界の大半はペンと科学であり、紛争のある国ですら装備は銃である。
 剣というのは要するにたとえだ。魔法も同じ。
 武力と不思議な力を譬えて『剣と魔法』というのだ。
「ええ。でも現実に存在するわ。もっとも、こんなわけのわからない空間に呼び出されて言われて納得できることじゃないでしょうけど」
 むしろうってつけの空間のような気もする。周囲が完全に空白の空間なんて作ろうと思って作れる物ではない。
「………………。まあ、仮に、って話で」
「そうね、助かるわ」
「で?」
「わたしがその剣と魔法を維遠に貸してあげるって言えばどう?」
「いや、どうって言われても」
 それならそれで。
「最初っから強いヤツに貸したれよ」
「うーん……それがねぇ……」
「?」
「例えばの話。アフリカで銃持って活躍している青年がいるとしてよ? その青年は魔法の力を信じるかしら?」
「………………」
 見せれば信じるんじゃないか? と思わなくもない。
 が、宗教の壁が邪魔をしそうな気もする。
「まあ大体考えている通りよ。日本人だって宗教がないわけじゃないけど。神様や仏様が実際にいると考える人は少ないわ。わたしだって信じてないし」
「をい」
「そういうことよ。天使と考えることに抵抗があるなら異星人と捉えてもらっても異世界人と捉えてもらってもいいけど。とにかくわたしたちはそもそも宗教的な縛りを持つ存在じゃないわ」
「文字通りの天の御使いではないと」
「ええ。で、こっから先のほうが大事なんだけど。それでもわたしたちが貸し与える力は信仰によるものなの。まあ、早い話が想いが力になるってヤツね」
「あー……」
「そうなると他に信じるものがあっては困るの。それは自分の力にしてもそうだし、他の存在にしてもそう。だからある程度の弱さは必要なの」
「オーケーオーケー」
 最後に信じられるのは自分だけ、というやつだ。ただ、その前提として魔法の存在を受け容れろ、ということらしい。
「で? たとえばどんな?」
「基本的にはなんでも。それが剣で魔法なら」
「じゃあ、持ち主が守りたいものを絶対に守ってくれる剣とか」
「それはダメ」
「なんで!?」
「守るのはあくまで維遠なの! 手を抜いちゃダメ!」
「えー……」
「そうでなくとも無茶な要求は無茶な代償で返ってくるから」
「ふむー……」
「一覧みたいなのあるけど?」
「待った」
「?」
「なんで了承してる風に話が進んでんの?」
「ちっ……気付いたか」
「舌打ちしやがった!?」
「いいじゃない。剣と魔法よ!? 誰もが夢見る世界に一歩踏み出せるのよ!?」
「冒険には危険が付き物ですから。文字通り」
「ちっ……無駄に冷静ね」
「命懸ってるっぽいからね」
「ふぅん……じゃあ、どっちか選ばせてあげる」
「?」
 それは少し大人っぽい口調だった。似合わないわけじゃないが違和感がある。
 幼い容姿だからだろうか。
「守って、って言ったんだからもちろん戦いなんだけど。この戦いがどんなものであるか見た上で了承するか、見ないで了承するかよ」
「おかしいやろその二択」
 即答した。
「どうして?」
「………………」
 たしかに九割がた受ける気でいるがそのあまりの真剣さにたじろいだ。
「いい? 維遠。古今東西色々な物語の中で色々な主人公が色々な決断をするけれど。その多くは生き残ることを前提にした決断よ。特に最初の『その物語に関わるかどうか』の決断はね。いい? 巻き込まれた物語に関わるのがイヤなら死んでしまえばいいのよ。ただ、多くの人間は、その人が主人公でなくても、そんな決断はしないというだけで。そういう意味では、維遠。あなたはもはやこの空間にいる時点でわたしの提案を受け容れるしかない。不自由な選択に見せかけた強制であるのなら少なくともわたしは強制であることくらいは示しておくわ。命を要求することに対する礼儀として」
 その青い瞳は怖いくらいの真摯さを帯びて維遠を見つめている。
「…………その論法で言うたら俺は死ぬんを選ぶかもしれんけど?」
「それならそれで構わない。そのときは苦しまないように楽に殺してあげる」
「………………」
 自分を守れという少女はしかし誰よりも強い瞳で。
「……わかった。どんな戦いか見してもらうしきみの提案も受ける。けどその前に」
「?」
「名前、教えて。まだ聞いてない」
「あ……」
 すっかり忘れていたようで、本当に驚いたような顔をしている。
「あらためて言うけど。俺の名前は神園維遠。維遠でエエ」
「わたしの名前は……そうね、今の名前は西ノ宮にしのみや命霞みかよ」
「今の?」
「この羽の通りわけありでね。天使の名前と人間の名前、二つあるの。天使の名前は発音できないからそちらで覚えておいて」
「りょーかい」
 互いに微笑みを交わす。少なくとも維遠にそんな意志はなかったが、顔が勝手にそうなった。その自覚だけがある。
「じゃあとりあえず《戦い》を見てきてちょうだい。見終わったら目覚めると思うから、そしたら今度は現実で会いましょう」
「うぃうぃ。ん? 『イェス、マイエンジェル』とか言うたほうがええ?」
「ばか」
 笑って流された。
「じゃ、行ってらっしゃい」
「? なんで?」
「テレビで見たって臨場感ないでしょ? 戦ってる人間の視覚感覚その他まとめてぶちこんであげる。まあ、ここと同じリアルな夢だと思ってくれればいいわ」
「え……」
「じゃ、行ってらっしゃい」
 笑顔で繰り返す。右の人差し指が彼女の顔の横で一つ振るわれた。
 それで急速に意識が消えていくのがわかった。眠りにつくような、気を失うような。
 なんだか残念な気がした。もっと彼女と話していたかったような。
 それで――
 まだ夢だと思っているんだろうかと、少し自嘲した。

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